写真:bow
地図を見る国の名勝でもあった白砂青松の景勝地・高田松原。過去の津波から陸前高田の町を守ってきた存在でもあった約7万本の松は3・11の津波により全てなぎ倒されました。
そんな中、10mを超える津波から奇跡的に生き残った1本の松が陸前高田市の復興を照らすシンボルとして立ち続けています。これこそ、今やその名を全国に広く知られる存在となった「奇跡の一本松」です。
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地図を見る震災直後から復興のシンボルとして親しまれてきた一本松。しかし海水に浸かったことにより受けたダメージは想像以上に深刻なものでした。震災から1年後の平成24年5月、奇跡の一本松は枯死してしまったのです。
陸前高田市は後世にこの奇跡の一本松を受け継いでいくため、モニュメントとして保存整備することに決定。賛否両論はあったものの、奇跡の一本松は可能な限りの保存処理を施され再びこの場に立つことができたのです。そして今や陸前高田の貴重な観光資源として日々、観光客を迎えています。
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地図を見るそんな奇跡の一本松の後方に見える被災した建物。これは「陸前高田ユースホステル」で、津波により完全に水没しました。また、砂地だった地盤が津波でえぐられたために建物が半分で折れ曲がったような姿になっています。
実は、この陸前高田ユースホステルがあったおかげで奇跡の一本松は津波から生き残ることができたとも言われています。そんな陸前高田ユースホステルは奇跡の一本松と合わせて震災遺構として残されているのです。
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地図を見る気仙川の河口に面した地にある気仙中学校は津波が市内で一番早く到達したエリアにあります。鉄筋コンクリート3階建の校舎は完全に津波で水没。校舎の屋上、画像でいえば手前の角に津波の到達水位の表示がありますが、屋上にいても全く安全ではないという尋常ではない高さの津波が襲ったことを示しています。
本来なら避難所としてあるべき学校を離れ、より高台へと避難するということが生き残る唯一の術であることを物語っているのです。
※敷地内、建物内部は立入禁止
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地図を見る三陸の大動脈である国道45号を走っていると衝撃的な光景が目に飛び込んできます。これは国道沿いに立つ「下宿定住促進住宅」で、若い世代向けの市営住宅だったのです。
鉄筋コンクリート5階建てのこの市営住宅は一目見ればどこまで津波が到達したのかをつぶさに見て取ることができます。海に面しているベランダや窓は4階部分まで全て破壊されています。
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地図を見る辛うじて5階のベランダの化粧パネルは残っていますが、実は5階の床上まで津波が到達していたことを示す表示があります。5階にいても命の保証がなかったという事実をそのままの姿で伝えています。
※敷地内、建物内部は立入禁止
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地図を見る岩手県内で2つめの道の駅としてオープンした「道の駅高田松原」は国道45号に面する道の駅。津波の直撃を受けつつも建物の原型をしっかりと留めているのはここが元々津波の避難施設として建てられたため。そんな建物も津波により上部をわずかに残して水没。しかし、そこでは3名の避難者が津波から難を逃れられたのです。
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地図を見るしかしながら、その内部に目をやると津波の圧倒的な水圧により完膚無きまでに破壊しつくされた姿が。そして高田松原に立っていた松の巨木も建物内部に突き刺さるように残されています。
※建物内部は立入禁止
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地図を見る高田松原の松は先人たちが植林をし、陸前高田市民の手によって守り続けられてきたもの。しかし、3・11の津波により高田松原の砂浜自体が大部分で消失してしまいます。
消失を免れた砂浜では文字通り根こそぎ津波でへし折られた松の根株が数多く残されていました。タピック45にはもともとは高田松原を形成していた松たちの根株が数多く展示されています。
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地図を見る旧道の駅高田松原タピック45の敷地内には震災遺構とは別に、東日本大震災追悼施設も併設されています。ここでは震災で亡くなられた方の慰霊碑や献花台も設けられています。また、震災前後の陸前高田市街地の写真も展示されています。
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地図を見る隣接して「復興まちづくり情報館」もあるのでこちらもチェックを。陸前高田市の被災状況や復興にむけての様々な取り組みなどがパネル展示されています。
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地図を見るまた、「旧道の駅高田松原タピック45」の道路を挟んだ向かい側にはかつてここで営業していたセルフ式のガソリンスタンド「セルフオカモト」が2012年3月に再オープン。
公式な震災遺構ではありませんが、市街地ではわずかに残された震災の記憶をとどめる建造物として、津波の直撃を受けた看板をそのままの形で営業をしています。穴の開いた看板と津波水位の表示を見れば、この場で何が起こったのか想像に難くないと思います。
※この看板はかさ上げ工事の移転により、2018年夏までに撤去されることになりました。
今後整備予定の「高田松原津波復興祈念公園」の一角を担う陸前高田市の震災遺構群。目を覆いたくなるようなその惨状を目の当たりにし、思わず手を合わせたくなるかもしれません。確かに、陸前高田市は壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出しました。
しかし、実はこれらの震災遺構の建物内では一人の犠牲者も出ていないのです。後世にまで津波に恐ろしさを語り継ぐ震災遺構たちは、逆に生存の証としても語り継がれていくものだったのです。自然の恐ろしさと共に人間の強さも感じて欲しい、そう語りかけているようにも思えます。
震災から年が経ちますが、陸前高田の今を見ればまだ完全なる復興への道のりは遠く感じます。遺された震災遺構を見に現地を訪れることは地元経済の活性化に寄与することになり、それが復興の手助けとなるのです。風化させるにはまだまだ早過ぎる、陸前高田の今を訪れてみてはいかがでしょうか?
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(2024/3/28更新)
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