家康の孫娘“千姫”が350年眠る!茨城・常総「弘経寺」

家康の孫娘“千姫”が350年眠る!茨城・常総「弘経寺」

更新日:2017/09/20 10:39

井伊 たびをのプロフィール写真 井伊 たびを 社寺ナビゲーター、狛犬愛好家
「弘経寺」は、徳川秀忠の子で、豊臣秀頼に嫁いだ“千姫”の墓があることで有名な、浄土宗大本山増上寺別院である。江戸時代初期、廃れた寺を再興した高僧・了学上人(当山10世)は、徳川家康、秀忠、家光の3代に亘って、なにかと優遇された。また、千姫が菩提寺と定めたことで、徳川家から本堂、山門、鐘楼が寄進された。桜の時期は「花まつり」、6月頃に「ムクロジ」、お彼岸頃に「曼珠沙華」と、花で参詣者を癒している。

寿亀山天樹院「弘経寺」

寿亀山天樹院「弘経寺」

写真:井伊 たびを

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茨城県常総市にある「弘経寺(ぐぎょうじ)」の正式名称は、寿亀山天樹院弘経寺(じゅきさんてんじゅいんぐぎょうじ)である。応永21年(1414年)に、嘆誉良肇上人(たんよりょうちょうしょうにん)が創建した浄土宗の寺院。境内には徳川秀忠の子で、豊臣秀頼に嫁いだ“千姫”の墓があることで知られている、浄土宗大本山増上寺別院である。

かつて、戦火などにより堂宇などほとんどが焼失し、無住職となって廃れた時代があったが、江戸時代初期、当山10世である「了学上人(りょうがくしょうにん)」が再興した。了学上人は、徳川家康、秀忠、家光の3代にわたって優遇された高僧で、千姫が菩提寺と定めたことなどから、徳川家から本堂、山門、鐘楼などが寄進された。

また、江戸時代には浄土宗の僧侶養成機関である「関東十八壇林」としても栄えた。特に、十八壇林の中でも上位に置かれた寺院であった。

寿亀山天樹院「弘経寺」

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当山の手水舎では、亀の甲羅から“手水”をいただく。これは、「良肇上人と飯沼の亀」の伝説が基になっている。
 
弘経寺の開山である「嘆誉良肇上人」は、境内地選定のおり、三猿が現れその勧めに従いここを選んだ。この地は、東に「鬼怒川」が流れ、西には「飯沼」があり、北に鬱蒼とした山林の広がっている適地。四方を谷が巡り、まるで“亀の甲羅”のような地形であったため「亀島山」と号したが、その時、飯沼の主である大亀が現れ「この土地は私のものである。すぐに立ち去ってほしい」と告げた。

とりあえず、良肇上人からの「十年間土地をお借りしたい!」の願いが叶えられたが、十年後、この大亀が再び現れ、土地を返すように求めてきた。が、上人は借用書に一線を加えて「千」としたため、亀は何も言わず立ち去ったという。良肇上人はこの後、山号を「寿亀山」と改め、この亀の徳を讃えたといわれている。

寿亀山天樹院「弘経寺」

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弘経寺の開山は、応永21年(1414年)である。次に大亀が、現れるのは千年後の西暦2414年だ。そう言えば確か、「鶴は千年、亀は万年」という。次回は、「万年先までお借りしたい!」とお願いするのだろうか?

平成に改修された「本堂」

平成に改修された「本堂」

写真:井伊 たびを

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本堂は寛永6年(1629年)の再建以来、風雪に耐えてきたが、その傷みが激しく平成18年(2006年)改修に着手し、平成20年(2008年)にその落慶を迎えた。再建当時の遺構は、内陣にそのまま残されており、江戸初期の寺院建築の粋を極めた彫刻や組物とその華麗な彩色、金箔が施されていたであろう丸柱が幕府の威光を今に伝えている。

平成に改修された「本堂」

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正面入口の向拝や扉は、文化6年(1809年)に描かれた「寿亀山元建図」の境内配置図にも残されており、本堂が改修された折、付け加えられた。江戸後期の建築様式を伝えており、今回の再建に際しても、その部材がそのまま活かされている。

総本山・知恩院、大本山・増上寺とする「弘経寺」は、浄土宗の寺院。阿弥陀如来のお誓いを深く信じ、“南無阿弥陀仏“と称えることによって、どんな愚かな、罪深い者でも、全ての苦しみから救われて、明るい安らかな生活を送ることができ、そのままの姿で、立派な人間へと向上し、やがて浄土に生まれることができるという教えを説き続けられている。

「経蔵」は、市指定文化財

「経蔵」は、市指定文化財

写真:井伊 たびを

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山門を入り左側に、薬師堂、開山堂、経蔵が並ぶ。

上画像が「薬師堂」で、下が「開山堂」である。

「経蔵」は、市指定文化財

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「経蔵」は、市指定文化財

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「経蔵(きょうぞう)」は、市指定文化財である。経典を保管するための建物で、内部を火災から護るため、一般に言う土蔵造により外壁が仕上げられている。そのため柱などにも特に組物を設けず、全体に簡素な造りとなっているのが特徴。

内部には、経典を収める輪蔵(回転文庫)がある。八角形を示し、軒は二重扇垂木、腰回りは五手先の腰組が設けてある。中央には心柱を入れ、全体が回転するように考案されている。この輪蔵を一回廻すと、引出しの一つひとつに収められている経典を、全て読んだのと同じ功徳が、得られると言われている。

本堂の左奥にある「千姫御廟」

本堂の左奥にある「千姫御廟」

写真:井伊 たびを

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千姫の御殿をここに移築した壮麗な建物は、惜しくも明治39年(1906年)の火災に灰燼となったが、本堂の左奥にある「千姫御廟」や遺品、そしてゆかりの品々は、その難を逃れ往時の風格を現代に伝えている。

千姫の墓はほかに、伝通院(東京都文京区)、知恩院(京都府京都市東山区)にもある。徳川家の菩提寺である「伝通院」に葬られた際、遺言に従い遺骨の一部がこちらに分骨された。

ところで、弘経寺には長年、遺髪が納められているとされていたが、平成9年(1997年)に行われた保存修理で、遺骨が納められていることが判明している。

「彼岸花」と「来迎杉」

「彼岸花」と「来迎杉」

写真:井伊 たびを

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「弘経寺」では、“春の桜”と境内での“野点茶会”が有名だが、秋の“曼珠沙華”も見事だ。花の期間は短いが、杉木立の緑に映える緋色の曼珠沙華の花を楽しむことができる。

ところで、曼珠沙華の花言葉には、「悲しい思い出」とか、「あきらめ」、「再開」、「転生」、「また会う日を楽しみに」などがある。そこで、「あきらめって、悲しい方面のことばかり」と思われがちだが・・・。

しかし、仏教においては、「あきらめ、あきらめる」は「事柄を明らかにする」という意味。「お手上げ状態」という、現代的な意味とは違う意味合いがある。彼岸花の別名として認識されている曼珠沙華。それが法華経で使われている意味の曼珠沙華に読み替えたら、「浄土にて蓮の台で、再開を楽しみに」という意味に、捉えなおす事もできるという。

「彼岸花」と「来迎杉」

写真:井伊 たびを

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境内にある杉の大木は、“天然記念物”である。修行僧「宗運」の貉(むじな)伝説にまつわり、「来迎杉(らいごうすぎ)」と呼ばれている。樹高もかつては34mあったが、30年ほど前より、梢の枯れが目立つようになり、平成4年(1992年)に、枯損部が切除された。それでも、目通り幹囲7.53m、樹高約33mあり、関東平野にある杉の木としてはかなりの巨木に属し、樹齢300年程度とされる。

「桜」咲く春と、「彼岸花」咲く秋が、特にオススメ!

「弘経寺」へは駐車場が完備されているので、車で訪れるのが便利だ。常磐自動車道「谷和原IC」より、国道294号線を常総・下妻方面へ約25分。鬼怒川に架かる「豊水橋」を渡り、2kmほど北へ走れば右側にある。

かつて、本堂、山門、鐘楼、経蔵は、それぞれ市の文化財(建造物)に指定されていた。しかし、本堂は平成20年(2008年)4月に改築され新しくなり、山門・鐘楼は、残念ながら一時解体中である。

毎年4月には、当寺や旧水海道市街地を会場に“千姫まつり”が開催される。また、秋には、境内のあちこちで緋色の「ヒガンバナ」が咲き誇る。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/09/15 訪問

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