写真:Naoyuki 金井
地図を見る太田市世良田には、「お江戸見たけりゃ世良田にござれ」と謳われたほどの『世良田東照宮』があります。
徳川家康を祀った東照宮は、日光、久能山、仙波(川越)の日本三大東照宮を始めとして現在約130社ありますが、その中でも地方都市でありながら、それなりの格式と由来を持っているのが、この『世良田東照宮』です。
そもそも『世良田東照宮』は、黒衣の宰相天海僧正の発願により日光東照宮から勧請された神社です。
日光東照宮は、家康の死後2代将軍秀忠によって創建され、3代将軍家光により改築され現在の姿となりました。
この改築の際、天海は、旧奥社の拝殿と宝塔(現存せず)を、世良田にあった長楽寺に遷座し、寺領100石と神領200石で『世良田東照宮』の管理と祭祀にあたらせたのです。
更に社殿等の修理は、幕府によって直接行われるという破格の待遇を与え、その本殿・唐門・拝殿は現在、国指定重要文化財となっています。
日光には遠く及びませんが、その『世良田東照宮』の煌びやかさが、徳川発祥の噂を解き明かす重要な建造物なのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るこの世良田東照宮が遷座された地である太田市世良田とは、一体どのような地域だったのでしょうか。
そもそもこの周辺は、新田荘と呼ばれる平安時代の荘園で、浅間山の大噴火で荒廃したこの地を、新田義重が再開発した場所なのです。
この新田義重とは、祖父が源義家で父が義家の三男源義国という、文字通り由緒正しき源氏の一族で、新田義重は新田家の始祖となります。
義家の嫡男で叔父にあたる源義親の三代直系が、鎌倉幕府を成立させた征夷大将軍源頼朝で、新田義重の弟である足利義康の八代目が室町幕府を成立させた足利尊氏という錚々たる親戚をもつ家系です。
更に、この新田家八代目当主が、生品神社で挙兵し鎌倉幕府を討幕した著名な新田義貞なのです。
こうした由緒ある新田一族の祖、新田義重が居住したとも新田義貞が居住したとも云われる新田館の跡地がこの『総持寺』で、別名「館の坊」と呼ばれていたのです。
この『総持寺』を始めとする新田荘の栄華こそが、徳川発祥の噂を具現化する背景だったのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るこの新田義貞をはじめとする新田家の歴史を知ることができるのが『新田荘歴史資料館』です。
新田家の祖新田義重の四男義季は、世良田の地と共に、隣の得川郷を領土としたことから得川義季と名乗ったと云われています。
一説では、この義季の子孫が松平氏となり、そこから得川→徳川と名乗ったという説もありますが、通説では、戦国時代から行われた出自を飾るための“系図買い”と云われています。
この“系図買い”の真相はこうです。
鎌倉幕府から始まる征夷大将軍の地位は、源氏で無ければならないという説から、平氏の信長・秀吉の次の家康としては、確固たる源氏の系譜が必要でした。
しかし、本家である源や足利姓では、流石に誰も信じません。そこで、新田義貞亡き後、当時、不振にあえいでいた由緒ある“新田”姓なら、末裔と云えば信憑性があるのではないかと考えたのです。
こうして家康は、得川義季の末裔であると表明し、松平から徳川に改名し、徳川は、源義家に繋がる由緒正しき源氏の名籍であると主張したのです。
『新田荘歴史資料館』で解るように、新田家の波乱の歴史が、徳川発祥の噂を現実化させたのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るこうして知らぬ間に徳川家の祖となった得川義季こと新田義季が、鎌倉時代に創建したのが『長楽寺』です。
早い時期から官寺とされ、室町時代初期には関東十刹の一つの名刹でした。
この長楽寺が、更なる繁栄をするのが江戸時代で、小田原北条氏討伐の功により関東の地を与えられた家康は、まさに徳川家の祖とされた得川義季ゆかりの地を手厚く庇護したのです。
その手始めが『長楽寺』で、まずは住職に天海僧正を着かせ、天台宗に改宗し、同時に境内を整備し伽藍を修復し、末寺700寺有余の大寺院にさせたのです。
そして前述したとおり、家光の時代に日光東照宮を遷座させたのですが、明治時代の神仏分離令により『長楽寺』と『世良田東照宮』に分かれたのです。
現在、この『長楽寺』には“1276年の石造宝塔”をはじめとした国指定文化財が3点、“勅使門・三仏堂・太鼓門”などの県指定文化財が22点もあり、さらに“新田荘遺跡”としても国の史跡に指定されているのです。
『長楽寺』などの後の新田家の復興こそが、徳川発祥の噂の紛れもない証明となったのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るもう一つ徳川家と新田家の関係が色濃く残されているのが、文字通り太田市徳川町にある『満徳寺』です。
『満徳寺』は、新田義季の娘・浄念尼が開いた時宗の尼寺で、代々の住職は新田の一族から出たという所縁により、家康は寺領100石を寄進しているのです。
そのきっかけは、この『満徳寺』が、縁切寺的機能をもった尼寺であったことでした。
大阪夏の陣後、豊臣氏との縁を切るため、豊臣秀頼の妻であった家康の孫娘・千姫を、この『満徳寺』に入寺することで離婚を成立させたのです。
勿論、実際に千姫が入寺するはずもなく、身代わりとして侍女を入寺させ住職とし、以降の三代の住職までは、大奥から住職が選任されたのです。
こうした徳川家の後ろ盾により、『満徳寺』は幕府から優遇され、格式と権威を兼ね揃え、鎌倉の東慶寺と共に、日本に2か所しかない幕府公認の縁切寺となったのですが、明治時代になると徳川幕府の瓦解により、廃寺となってしまったのです。
現在は、復元された本堂と共に、縁切り・縁結びの資料館もある『満徳寺』を知ることで、徳川発祥の噂を強固に裏付けることになるのです。
いかがでしたか、徳川発祥の噂の真相をご理解いただけたでしょうか。
三河(愛知県)とは縁も所縁もない世良田(群馬県)が、奇妙な力学で結びついた結果と云えるのです。
一度、徳川発祥の地を訪れ、貴重な建造物や資料などを実際に見聞して、噂の真相を確かめてみてください。
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この記事を書いたナビゲーター
Naoyuki 金井
首都圏の神社を中心に小さな歴史絵巻を集めているジンジャーハンター。パワースポットのみならずサブカルやグルメなど、ニッチでギークな旅を紹介しています。皆様の旅にレアな彩を添えられれば、この上ない喜びです…
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