写真:乾口 達司
地図を見る達磨と聖徳太子との関わりを伝えた話は「片岡山飢人伝説」と呼ばれています。『日本書紀』推古天皇21年(613年)のくだりや『元亨釈書』によると、聖徳太子が片岡山を通りかかったとき、飢えと寒さで死にかけている異人と遭遇しました。太子は異人に食物や衣服を与えましたが、そのかいもなく、異人は間もなく他界。その末路を哀れに思った太子は遺体を丁重に埋葬しました。しかし、後日、墓を見に行くと、遺体が消えてなくなっていた代わりに棺の上には太子が与えた衣服がきちんとたたまれた状態で残されていたとのこと。その逸話を聞いた人々はやがて異人を達磨の化身と信じ、達磨の像を安置して寺院を建立しました。それが達磨寺のはじまりであるといわれています。
もちろん、異人が達磨自身であったかはさだかではありません。異人を達磨と見なすようになったのは聖徳太子信仰がさかんになる中世以降のことだとも考えられていますが、興味深いのは、現在の本堂が異人を埋葬したとされる古墳(達磨寺3号墳)の上に建立されていることです。本物の古墳の上に本堂が建立されているなんて、片岡山飢人伝説が実際の出来事であったかのように思えてきませんか?
写真:乾口 達司
地図を見る本堂の下に残る達磨寺3号墳については、さらに驚きの調査結果も出ています。いまから十数年前、本堂の改築工事にともなっておこなわれた本堂下の発掘調査により、達磨寺3号墳からはご覧の石塔が出土しています。石塔の内部には鎌倉時代の作と考えられている水晶製五輪塔形舎利容器がおさめられており、達磨寺3号墳が特別な古墳として人々に崇められてきたことがうかがえます。果たして、聖徳太子が遭遇した異人とは、達磨だったのか?それとも別の誰かだったのか?いずれにせよ、そこに埋葬された人物が人々から特別な存在と見なされてきたことは間違いありません。
ちなみに、達磨寺の境内には他にも2基の古墳が残されています。本堂の北東に位置する達磨寺1号墳には東に向けて開口する横穴式石室があり、太子がこの横穴を使って法隆寺と達磨寺とを行き来していたといういい伝えも残されています。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は境内の西側に安置されている雪丸像。雪丸は聖徳太子の愛犬であったといわれています。江戸時代にまとめられた『大和名所図会』所収の達磨寺の項目をひもとくと、当時は上で紹介した達磨寺1号墳の墳頂に安置されており、達磨寺1号墳はかつて雪丸を埋葬した古墳であると見なされていました。雪丸は、現在、王寺町のマスコットキャラクターとなっており、その石像をもとにして作られた雪丸像を町内各地で目にすることができます。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は本堂に安置されている千手観音菩薩坐像。室町時代の作で像高は76.8センチメートルです。堂内にはほかにも国の重要文化財に指定されている聖徳太子坐像や達磨坐像などが安置されており、ここからも達磨寺が聖徳太子や達磨と深いつながりを持っていることがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る達磨寺には、実はもう一つ、ぜひ、ご覧いただきたいスポットがあります。戦国大名・松永久秀の墓所です。松永久秀といえば、織田信長の上洛以前に畿内を支配していた戦国大名・三好長慶の重臣でありながら、次第に長慶を圧倒し、長慶の死後は三好家を没落させた下克上の典型的な人物。みずからと敵対関係にあった室町幕府第13代将軍・足利義輝を殺害し、三好三人衆との激戦のさなかに東大寺大仏殿を焼き討ちにしたことでご存知の方も多いのではないでしょうか。信長の上洛後は信長に臣従するものの、2度にわたって謀反をくわだて、天正5年(1577)10月、達磨寺からほど近いみずからの居城・信貴山城で自害しましたが、こんなところに戦国の梟雄とも称される松永久秀のお墓があるなんて、ご存知でしたか?戦国マニアの方々も、ぜひ、足をお運びください。
達磨寺の由緒来歴がどのようなものか、ご理解いただけたでしょうか。土曜日と日曜日は地元のボランティアガイドによる解説もあり、平日は閉じられている本堂のなかを案内していただけます。達磨寺の歴史や伝承をより詳しく知りたい方は、土日に拝観することをお勧めします。達磨と聖徳太子との意外な組み合わせが知られざる歴史を伝えてくれる達磨寺を訪れ、古代史の魅力をご堪能ください。
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(2023/12/8更新)
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