ここが古代の政治の中心地 周防国の国府があった「防府」

ここが古代の政治の中心地 周防国の国府があった「防府」

更新日:2015/05/27 10:18

防府市は、県庁所在地・山口市の南に位置する人口約12万人の都市です。2015年は、大河ドラマ『花燃ゆ』ゆかりの地としても話題となっています。防府天満宮は、日本三大天神の一つとして有名です。しかし、防府がかつて山口県の一部である周防国の政治の中心地であったことは、あまり知られていません。そこで、かつて「周防国府」が置かれていた政治の中心地の防府を、古代の歴史とともに体感しませんか。

ここが政治の中心・周防国府!

ここが政治の中心・周防国府!
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周防国の国府跡は、市の中心部から北東2km程の所に位置しています。現在は公園として整備されつつありますが、建物は復元されていません。今でも発掘調査が続けられています。建造物が存在しないとイメージしにくいかもしれませんが、実際にこの地に立ってみて下さい。建物跡の説明を見ながら歩けば、敷地内の広範囲にわたって役所の建物があったことだけは実感できるかと思います。

国府は、地方政治の中心地です。今でいうところの都道府県庁所在地に該当します。国府では、多くの役人たちが働いていました。周防国府がいつからあったのかは定かではありません。少なくとも1300年くらい前からは存在していたと考えられます。その証拠に、奈良時代の木簡などが出土しています。

ここで豆知識です。周防国府には、清少納言のお父さん・清原元輔も赴任しています。と言うことは、『枕草子』の作者も幼少時、この地で過ごしていたということです。

日本各地の多くの国府は、鎌倉時代に入る前には政治的機能を失いつつありました。でも、この周防国府は鎌倉時代に入っても政治的機能を発揮していました。このことが幸いして、他の国府に比べて現在まで多くの遺物を残してくれているのです。全国的にみても貴重な史跡です。

写真中央の石碑は「国庁」と刻まれており、1860年に建てられたものです。写真左の石碑の「国衙」とは、今でいう都道府県庁の建物を指す言葉です。気になられる方もいらっしゃるかと思いますが、右側の砲弾は日露戦争に関するものです。本当に気になるのでしたら、実際に見に行って下さい。

政治の中心・周防国府を見学したら、同じく政治の中心地と密接に関係する国分寺を見に行きましょう。

創建当時からこの場所にある周防国分寺

創建当時からこの場所にある周防国分寺
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周防国分寺は、国府から北西1km程の所に位置します。

国分寺は、奈良時代の741年に出された「国分寺建立の詔」により建てられました。この詔では、国府の近くに国分寺を建てるように指示されています。詔とは天皇の命令です。この命令は聖武天皇が出したものです。

この時、国分寺とともに国分尼寺の建立も命ぜられています。男性僧侶が修行するのが国分寺、女性僧侶が修行するのが国分尼寺です。

国分寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といいます。因みにに国分尼寺は、「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)といいます。国分寺には「金光明最勝王経」が、国分尼寺には「妙法蓮華経」が納められました。

この頃、天然痘の流行や藤原広嗣の乱がありました。この様な社会状況を憂い、聖武天皇は、日本国を仏教の力で守られることを願って寺院の建立を命じたのでした。

奈良にある東大寺は、「惣国分寺」です。全国各地にある国分寺の頂点として位置づけられました。

周防国分寺の建立年代は不明ですが、詔が出されてからは長い時間を経ていないと考えられています。そして、ここに国分寺があると言うことは、周防国の政治の中心地の証です。

国分寺の敷地の面積は創建当時よりは減っていますが、創建時からここに国分寺がありました。写真の建物は、重要文化財に指定されている金堂です。この金堂は、1788年頃に完成したと考えられています。建物の中には、重要文化財に指定されている仏像も安置されています。

境内には、楼門、七重の塔跡など壮大な国分寺を想像できる遺物が多くあります。

菅原道真公と防府

菅原道真公と防府
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写真は、国分寺の境内にある「水鑑の井戸」です。菅原道真が井戸に写った自分を描き、その肖像画を国分寺に奉納したと伝えられています。周防国分寺は、菅原道真とゆかりのある寺院です。

平安時代の901年、右大臣(政界ナンバー2)であった菅原道真は、左大臣(政界ナンバー1)の藤原時平の讒言により大宰府へ左遷されました。所謂、「菅原道真左遷事件」とか「昌泰の変」と呼ばれる事件です。

失意の中で道真は、この防府に到着しました。そして、国分寺での出来事が縁で防府ゆかりの人物となりました。後に防府天満宮がつくられたわけですが、菅原道真を偲びながら学問の向上を願ってみて下さい。

防府は、都(平城京や平安京)と日本の外交窓口・大宰府を結ぶ「山陽道」が通っていました。このことにより防府は、歴史上の有名人物が滞在または通過した土地です。道真もその一人なのです。

更に、防府が歴史的に古い土地であることが、国府から離れた所でも体感できます。防府市郊外に足を伸ばしてみましょう。

周防国の一宮・玉祖神社

周防国の一宮・玉祖神社
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一宮とは、それぞれの国の中で最も格式の高い神社を指します。

玉祖神社は、周防国の中で最も格式の高い神社です。朝廷から派遣された国司の最上位者(現在の都道府県知事に該当)は、現地に赴任すると格式の高い神社に参拝することとなっていました。この神社も、参拝の対象となっています。全国各地に一宮があるので、馴染みのある神社かもしれません。

この神社の祭神は、三種の神器の一つである八坂瓊曲玉を造った玉祖命です。神社の創建はあまりにも古く定かではないとのことです。

この神社は、天然記念物に指定されている黒柏鶏発祥の地とも言われています。この鶏は、山口県や島根県でかなり昔から飼育されてきた中型の鶏です。境内でも飼育されています。参拝の際には、是非とも足を運んでみて下さい。

古代と現代のコラボ・剱神社

古代と現代のコラボ・剱神社
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剱神社は、その立地に興味を覚えます。写真では見えにくいかもしれませんが、建物の右奥に新幹線の高架と架線が写っています。そうです。神社の建物の後ろを山陽新幹線が走っているのです。

新幹線と神社のコラボ。珍しくないと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、この神社の創建の契機は、仲哀天皇の時代に素戔嗚尊を祀ったこととされています。

第14代の仲哀天皇は、日本武尊の子とされており、実在性が疑われている天皇です。このことにより、西暦何年くらいの人物とは言えません。でも、この様な伝承があるということは、かなり古い時代からの神社と言えましょう。しかも周防国の神社の中でも、10本指の古さに入る神社です。

周防国の中でも古いと由来される神社と、現代の高速鉄道とのコラボレーション。好奇心がくすぐられませんか?参拝しながら新幹線の走行音を耳にしてみて下さい。不思議な感覚を体感することでしょう。

幕末だけが防府ではない

防府は、幕末の歴史以外にも魅力ある歴史がたくさんあります。古代以来の政治の中心地を丁寧に散策して、その土地を奥深く味わいましょう。新しい発見が満載の地です。

それぞれの施設には、駐車場も整備されています。車でも観光しやすい土地です。自家用車やレンタカーなど、旅のスタイルの選択肢は多い方かと思います。

幕末の歴史で有名な防府を、古代史を中心に、貴方にとって最善のプランを立てて楽しんで下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/03/25 訪問

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