写真:乾口 達司
地図を見る西高月古墳群の盟主・両宮山古墳(りょうぐうさんこふん)の墳丘の長さは206メートル。吉備路の造山古墳・作山古墳につぐ岡山県下第三の規模を誇ります。注目したいのは、墳丘の周囲に周濠がめぐらされていること。かつてはこの周濠の外側にさらに周濠がはりめぐらされていました。二重の周濠を持つ大型の前方後円墳は近畿地方に多く、墳丘の平面形が大阪府堺市の仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の5分の2のスケールに設計されていることからも、両宮山古墳に埋葬された人物が畿内のヤマト政権と強く結びついた人物であったことが推測されます。
両宮山古墳が築造されたのは5世紀後半。『日本書紀』によると、その頃、ヤマト政権は古代吉備王国の主要な人物を次々に殺害し、その領地の収奪をはかっています。両宮山古墳以降、古代吉備王国に大型の前方後円墳が築かれなくことを踏まえると、両宮山古墳は古代吉備王国の衰退の象徴であるとも考えられるでしょう。古代吉備王国の中心地と推定される地域から遠く離れた当地にヤマト政権と強く結びついた古墳が築かれていることからは、もしかすると、両宮山古墳には吉備の首長ではなく、畿内から送り込まれたヤマト政権側の人物が埋葬されているのかも知れませんね。
写真:乾口 達司
地図を見る両宮山古墳の北方に築かれているのが、写真の和田茶臼山古墳。現在は直径約30メートルの円墳ですが、以前は短い前方部を南西にそなえた帆立貝形古墳であったことが判明しています。両宮山古墳と同様、こちらにもかつて二重の周濠がめぐらされていました。
写真:乾口 達司
地図を見る両宮山古墳の南方に位置するのは、墳丘の全長54メートルの小山古墳。後円部には神社が建立されていますが、ご覧のように、本殿の周辺には家型石棺の破片が散乱しています。蓋石にしつらえられた縄掛突起(石棺を運搬する際などに縄を引っ掛けるために加工された突起物)も確認できるため、古墳マニアにはたまりませんね。
写真:乾口 達司
地図を見る両宮山古墳の西方には、備前国分寺跡も残されています。国分寺は、奈良時代、聖武天皇の命によって全国に建立された寺院。東西約175メートル、南北約190メートルの築地塀にかこまれた境内には金堂や講堂などが南北に一直線に並んでいました。写真は塔の跡。塔を支えていた礎石群が当時の様子を伝えています。
国分寺が造られたのは西高月古墳群の築造から200年以上も後のことですが、西高月古墳群が築かれた地に国分寺が置かれたことからも、当地が中央政権にとってきわめて重要な地区であったことがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る西高月古墳群を見てまわる際、そこから車で5分ほどの距離にある岡山市北区の牟佐大塚古墳(むさおおつかこふん)もあわせて見学しましょう。6世紀末に築造された円墳で、直径は約30メートル。なかでも目を見張るのは、石室の巨大さです。石棺の置かれている玄室部とそこにいたる羨道とをあわせるとその長さは18メートルにおよび、総社市のこうもり塚古墳、真備町の箭田大塚古墳とともに岡山県下三大巨石墳の一つに数えられています。玄室部に家形石棺が残されているのも貴重です。
ちなみに、羨道に見られる緑色の発光体はヒカリモ(光藻)。洞窟などに生息する貴重な生き物なので、踏みつけたりしないように注意しましょう。
西高月古墳群がどのようなものか、おわかりいただけたでしょうか。ほかにも、大量の朱が見つかったことで知られる朱千駄古墳など、当地にはまだまだ魅力のある古墳が点在しています。山陽自動車道をまたぐようにして点在しているため、車でのアクセスも快適。古代史の謎を喚起してくれる西高月古墳群をめぐり、古代吉備王国の行く末に思いを馳せてみてください。
この記事を書いたナビゲーター
乾口 達司
これまでは日本文学や歴史学の世界で培った見識にもとづいて数多くの評論や書評を執筆してまいりました。奈良生まれ、奈良育ちの生粋の奈良っ子。奈良といえば日本を代表する観光地の一つですが、地元民の立場からい…
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