写真:スノードロップ
地図を見る日本遺産として認定された弘道館は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって創立された日本最大規模の藩校です。入学年齢は15歳。生涯教育を原則とし、卒業はありませんでした。
藩士とその子弟が、学問と武芸の両方を学んだ場所。
医学・薬学・天文学・蘭学にまでおよぶ幅広い学問を取り入れた、いわば当時の総合大学と言えるでしょう。
その正門(重要文化財)は、本瓦葺き四脚門という建築様式で、屋根瓦には葵の紋があります。
藩主が来館する際など正式の場合のみ開門し、学生や諸役人は通用門から出入りしたと言われています。
正門柱には、水戸藩の藩内抗争最後の激戦といわれる「弘道館の戦い(明治元年/1868)」時の弾痕が残ります。
写真:スノードロップ
地図を見る学校御殿とも言われた日本遺産・弘道館「正庁(せいちょう)」。
藩主が臨席し、文武の試験を行った場所です。
正庁の玄関には、広い式台(しきだい)が設けられ、「弘道館」と書かれた斉昭自筆の扁額が正面上に掲げられています。
弘道館の建築は、面取角柱、長押(なげし)をまわした書院造建築の正統を継ぐもの。
付書院には、6000冊以上の本がありました。
写真:スノードロップ
地図を見る中に入って目を奪われるのは「正庁正席の間」。
藩主が臨席をし、正席の間や二の間で行われた学問の試験や、対試場で行われた武術の試験をご覧になった場所で、畳縁にまで葵の紋が入っています。
床の間に掲げられているのは、日本遺産「弘道館」の建学精神と教育方針を刻んだ弘道館記碑の拓本です。
草案の作成は藤田東湖が命ぜられ、学者らの意見を取り入れながら、一字一句に心血が注がれて完成しました。
石碑は、弘道館公園内の八卦堂に納められています。
写真:スノードロップ
地図を見る正庁と長廊下によって結ばれている「至善堂(しぜんどう)」は、藩主の御座所(居間&休息所)でした。
御座の間をはじめ4室からなる至善堂の名称は、斉昭が「大学」の一節からとって命名したもの。「人間は最高善に達し、かつその状態を維持することを理想とすべきである」という意味がこめられています。
第15代将軍となった徳川慶喜も、父斉昭の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けています。
そして、慶応3年(1867年)の大政奉還後、至善堂で4ヶ月間の謹慎生活を送りました。幼少期に学んでいた部屋で謹慎した慶喜の心境が偲ばれます。
歴史的な価値や意義をわかりやすく伝えるストーリー性があり、その魅力を海外にも発信できることを基準とした「日本遺産」。
その日本遺産に認定された「弘道館」と「偕楽園」は、「一張一弛(いっちょういっし)」という思想により作られました。
厳格に学問に励む場所として作られたのが「弘道館」。
藩主から武士、領民まで皆で楽しむ場所として作られたのが「偕楽園」。
時には厳格に、時には寛容に生きるべきという儒学の思想です。
この弘道館を舞台に「水戸学」が発展し、幕末の志士にも大きな影響を与え、後に明治維新の原動力になっていくのです。
弘道館の館内には、藩校当時の空気感が漂っています!
藩士の子弟気分を味わう休日はいかがですか?
この記事の関連MEMO
この記事を書いたナビゲーター
スノードロップ
旅とワインをこよなく愛する、お気楽系ライター「スノードロップ」です。守備範囲は、たくさんの方が興味を持ってくださりそうなキラキラした場所から、期間限定orマニアックな渋い場所まで。ゆっくりまったりです…
トラベルjpで250社の旅行をまとめて比較!
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索