写真:万葉 りえ
地図を見る京都の東側に連なる山々。「♪月はおぼろに 東山〜」と祇園で舞われている東山ですが、青蓮院(しょうれんいん)はその東山連峰の粟田(あわた)山の山すそ。1788年の京都大火で御所が炎上した時にはここが仮御所となったので、「粟田御所」とも呼ばれるようになりました。
「宸殿(しんでん)」は他の寺院では見られない造りで、門跡寺院特有の建物です。
広い庭に向かって開かれた部屋に入れば、平安時代の寝殿造りの貴族の館を彷彿(ほうふつ)とさせることでしょう。
広い畳敷きの部屋で庭に向かって座れば、「良き眺めでおじゃる」とつぶやきたくなるかもしれません。
このように、お寺といっても、江戸時代のころまでの天皇家や貴族の暮らしの面影を残しているお寺なのです。
写真:万葉 りえ
地図を見る四季折々、またライトアップでもにぎわう寺ですが、緑の季節は、この寺が持つ味わいを一層深く感じることができます。
健脚の人は阪急河原町駅から歩くこともできる距離。
知恩院の三門前から続く道を北へ進むと、樹齢がどのくらいなのかも想像できないくらい見事な大楠が、それぞれに枝を広げています。根元は深い緑の苔がおおい、樹上は、離れた場所から広角レンズで撮影しても画面におさまりきれないほど。
入り口に至る前から、こんなに緑が豊かなのです。
写真:万葉 りえ
地図を見る最澄が比叡山を開くにあたっていくつも作られた僧侶の住坊の一つに「青蓮坊」というのがあったそうです。やがて鳥羽法皇が青蓮坊の大僧正に帰依し、御所のような殿舎を京都に造ったのが、門跡寺院青蓮院の始まりとなります。
第三世門主の慈圓(じえん)は天台座主にもなっており、彼が法然に与えた院内の一坊が、のちの知恩院となっていきました。
門跡寺院ですから天皇家とも親しく、秀吉が寄進したといわれている手水鉢もあり豊臣家とも親しくしていたようです。徳川氏の時代に取り上げられるまでは、今の知恩院(ちおんいん)の寺域も青蓮院の土地だったというのですから、青蓮院が持っていた寺域は広大だったんですね。
政治の駆け引きなのか、徳川幕府は土地を取り上げたものの、応仁の乱で建物を焼失していたため再興に協力しています。その建物が、仮御所にもなりました。
現代の私たちも、それを再現した建物に入ることができ、そこから庭を鑑賞することもできます。ドラマなどで見るようないでたちの公達も、御簾ごしに同じように庭の緑を愛でていたのでしょうね。
写真:万葉 りえ
地図を見る青蓮院の庭は、粟田山の山すその環境を利用し、建物の配置に合わせて、いくつかの庭を組み合わせるように作られています。
異なった庭の趣向を感じるには、緑の多い季節が一番!
小堀遠州作と伝えられている庭は立体感を持って霧島ツツジが植えられ、その間を埋めるようにほかの木々が色を加えて、緑の濃淡が目を楽しませてくれます。
茶室「好文亭(こうぶんてい)」の奥にある大森有斐(おおもりゆうひ)の作と伝えられている庭に入ると、山肌に美しい苔が待っています。しっとりとした色のシダなどを見ていると、こちらは、まるで山道をたどっているよう。
そして、この庭園の主庭にあたるのが、小御所と客殿、好文亭の三つの建物で囲まれた庭です。
平安時代から日本で作られてきた築山泉水庭の形をとっていますが、滝から出た流れが池をつくり、やがて下流に向かうまでの間に橋や築山などを配置して、絵巻物を見ているようにまとめています。相阿弥(そうあみ)作と伝えられていますが、粟田山の山すその形状を利用する巧みさは見事。
このように、それぞれの庭のおもむきは異なっているのに、全体として一つにまとまって落ち着いた庭。しかも、緑の季節は、どこも緑色であるからこそ、それぞれの庭の違いや、緑の中にある豊富なグラデーションがよくわかります。
写真:万葉 りえ
地図を見る日本人は緑色に対して、様々な名前をつけてきた民族です。
「ひわ色」「「うぐいす色」「若草色」「萌黄」「黄緑」「若葉」…
それぞれの庭でたくさんの緑に魅了された後、山ふところに抱かれるようにある日吉社のあたりでは、この青竹が出迎えてくれます。
青竹のみの潔さ。
こちらは、雨上がりなどに特に美しさが増しますよ。
青蓮院で何種類の植物を見たのか、どのくらいの緑色を見たのかは、思い出しても数えられないでしょう。
しかし、何年たっても「ああ、あの緑は素晴らしかった!」そう思い出していただけるはず。
JRの「そうだ京都、行こう。」の夏のポスターにも使われたことがある庭園。
日本人が持っていた緑への感性をぎゅっとつめこんだ「緑を愛でる」という言葉がふさわしいお寺です。
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(2023/11/29更新)
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