写真:乾口 達司
地図を見る「ジョセフ・ヒコ」は洗礼名。本名は浜田彦蔵で、幼名は彦太郎。天保8(1837)年8月21日、播磨国加古郡阿閇村古宮(現在の播磨町)で誕生しました。嘉永4年(1851)、彦蔵は栄力丸で江戸へ出かけ、その帰りに海上で遭難。太平洋上を52日にわたって漂流し、南鳥島付近でアメリカの商船オークランド号に救助されました。しばしのあいだ、アメリカに滞在した後、ペリー艦隊に同乗して日本へ帰国するつもりでしたが、本人の意思により、ふたたびアメリカに舞い戻りました。その後、アメリカに帰化。安政6年(1859年)に帰国を果たしてからはアメリカと日本とのあいだを行き来し、明治30年(1897)12月12日、この世を去りました。ピアース・ブキャナン・リンカーンの3人の大統領と会見した唯一の日本人であったということもあわせて付け加えておきましょう。
ヒコの生誕の地である播磨町の蓮花寺には、両親とその家族の墓が残されています。通称「横文字の墓」と呼ばれており、現在、播磨町指定の文化財にも登録されています。明治3年(1870)12月、帰郷した折にヒコ自身が建立したものですが、その逸話からは、郷里とそこに暮らした両親に対するヒコ自身の思いの深さがうかがえませんか?
写真:乾口 達司
地図を見るしかし、なぜ、両親とその家族の墓が「横文字の墓」と呼ばれているのでしょうか?その理由は墓石に刻まれた文字にあります。写真をよくご覧ください。「JOSEPH HECO」「December,1870.」という文字が刻まれているのが、おわかりになるはず。「横文字の墓」という通称はその記述に由来します。いまでこそ墓石に横文字を刻む人もいますが、当時としてはきわめて珍しかったことでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る播磨町郷土資料館には、ヒコゆかりの史料も展示されています。写真はヒコが発行した「海外新聞」(金沢文庫所蔵のものの複製)。神奈川県の外国人居留地内にあった自宅において、ヒコが日本ではじめてとなる近代的な新聞を発行したのは、元治元年(1864)6月28日のこと。その新聞は英字新聞を日本語訳したもので、表紙には富士山を背景にして神奈川港が描かれています。私たちが、毎日、目にする新聞がここから出発したなんて、感慨深いですね。
写真:乾口 達司
地図を見る館内にはヒコ遭難のきっかけを作った栄力丸の模型も展示されています。栄力丸は江戸通いの大型廻船。摂津国大石村の酒造家・松家八三郎により、嘉永2年(1849)の秋、作られました。これだけの大型廻船が遭難したのですから、よほど大きな海難事故だったのでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る播磨町では以前よりヒコの名を小惑星につけるプロジェクトが推し進められていました。そして、平成24年(2012年)12月28日、国際天文学連合小惑星回報で「Heco」と命名されることが許されました。写真はその認定書。ヒコの名が小惑星にもつけられているなんて、ロマンチックですね。
ジョセフ・ヒコの生涯とその業績をご理解いただけたでしょうか。播磨町には他にもヒコの記念碑なども残っていますので、普段、自分たちが目にする新聞がヒコの尽力ではじまったのかということに思いを馳せながら、播磨町に残るヒコゆかりの地をめぐってみてはいかがでしょうか。
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(2024/11/5更新)
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