院政の表舞台!王朝文化の最後を飾る京都市の「安楽寿院」

院政の表舞台!王朝文化の最後を飾る京都市の「安楽寿院」

更新日:2025/02/07 09:19

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
「院政」とは、平安時代後期、天皇の父親や祖父にあたる「院(治天の君)」がとりおこなった政治のこと。天皇家の私的機関でありながら、朝廷の力を凌駕するほどの権勢を有し、当時の国内政治を差配しました。そんな院政の舞台は平安京の内部(洛中)にあったと思い込んでいる人も多いでしょうが、その中心地は都ではありません。今回は院政の表舞台となった伏見区の「安楽寿院」を紹介し、院政期の名残をさぐってみましょう。

鳥羽離宮の名残をいまに伝える安楽寿院

鳥羽離宮の名残をいまに伝える安楽寿院

写真:乾口 達司

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平安時代も後期になると、それまで絶大な力を有していた藤原摂関家が衰退。それになり代わり、天皇の父親や祖父にあたる「院」に権力が集中しはじめます。天皇家の長としての「院」は、「治天の君」として、やがて朝廷をしのぐ権威と権力を握り、朝廷とは別の独自の行政機関(院庁)を持つにいたりました。朝廷に成り代わって政務を代行する新たな政治形態を「院政」と呼びます。院政は白河院(白河上皇)の時代にはじまり、そのあとをついだ孫の鳥羽院(鳥羽上皇)の時代に絶頂期を迎えます。

院政の舞台となったのは、現在の鳥羽の地。鳥羽には「鳥羽離宮」と呼ばれる院の御所が次々に造営され、繁栄をきわめました。今回、ご紹介する京都市伏見区の「安楽寿院(あんらくじゅいん)」は、1137年(保延3)、鳥羽離宮の東殿に設けられた仏堂を前身としています。

鳥羽離宮の名残をいまに伝える安楽寿院

写真:乾口 達司

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安楽寿院を創建したのは鳥羽院。鳥羽院は白河院の時代に造営がはじめられていた鳥羽離宮に入り、みずからの墓所となる「本御塔(ほんみとう)」や皇后・美福門院(藤原得子)のための「新御塔」などを建立しました。

鳥羽離宮の名残をいまに伝える安楽寿院

写真:乾口 達司

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境内には、当時の鳥羽離宮の様子が書かれた案内板もあります。

鳥羽離宮の敷地は180万平方メートルにおよぶ広大なもので、鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などには数多くの仏堂なども付属していました。鳥羽の地は以前から平安京の外港として栄えていましたが、院政期に入ると、それまで以上に多くの人が移り住み、あたかも都が遷ってきたかのようであるとさえいわれたほど「院」の権勢がいかに強大であったかがしのばれます。

現在の安楽寿院は住宅地のなかにひっそりたたずむ小さなお寺。それだけに、かつてこの地に壮大な離宮が存在したという事実に、誰もが驚くことでしょう。

収蔵庫と周辺の礎石群

収蔵庫と周辺の礎石群

写真:乾口 達司

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本堂の西側にある収蔵庫には、安楽寿院が所蔵する数々の寺宝がおさめられています。

注目したいのは、軒下に掲げられた「本御塔」の扁額。先ほどもご紹介したように、「本御塔」とは、安楽寿院を創建した鳥羽院がみずからの墓所を「本御塔」と名付けたことにちなんでいます。

収蔵庫と周辺の礎石群

写真:乾口 達司

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収蔵庫の周辺には、たくさんの石が配置されています。その多くは鳥羽離宮の建物を支えていた礎石。

礎石からも鳥羽離宮の存在がしのばれます。

院政の絶頂期に君臨した鳥羽院や近衛天皇の陵墓

院政の絶頂期に君臨した鳥羽院や近衛天皇の陵墓

写真:乾口 達司

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写真は安楽寿院の西側に残る鳥羽院の陵墓(鳥羽天皇陵)。生前、鳥羽院は安楽寿院の境内に三重塔の寿陵「本御塔」を営み、崩御後、遺骸はその三重塔の下におさめられました。現在、陵墓のある場所には方形の仏堂が残されています。

鳥羽院は堀河天皇の皇子。天皇であった少年期は祖父である白河院が政務を代行していましたが、白河院の崩御後は、崇徳・近衛・後白河天皇の3代、約30年にわたって院政をとりおこないました。

院政の絶頂期に君臨した鳥羽院や近衛天皇の陵墓

写真:乾口 達司

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写真は鳥羽天皇陵の南にある「冠石」。院となった鳥羽院は、こちらの石の上にみずからの冠を置き、ここを中心として離宮の造営をはかったとされています。

ここからもわかるように、鳥羽院の権勢は絶大で、鳥羽院の生存中は院や朝廷に渦巻いていたさまざまな矛盾や諸勢力の思惑が争乱として具体的に噴出してくることが皆無であったほど。鳥羽院の崩御から10日たらずで保元の乱が勃発したことからは、逆説的に鳥羽院の権力がいかに絶大であったかがしのばれます。

保元の乱の後、平家や源氏といった武家が台頭してくることを踏まえると、鳥羽院の崩御をもって、平安期の王朝文化は終止符を打たれたといっても過言ではありません。

院政の絶頂期に君臨した鳥羽院や近衛天皇の陵墓

写真:乾口 達司

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境内の南側には、院政期の天皇であった近衛天皇の陵墓も存在します。近衛天皇は鳥羽院と美福門院とのあいだに生まれ、わずか2歳で即位。しかし、1155年(久寿2)、17歳で崩御しました。御遺骨は美福門院のために建立された新御塔内に安置されましたが、その後、新御塔は倒壊。現在の塔は、慶長年間、豊臣秀頼によって再建されたものです。

天皇陵といえば、古墳形式のものを思い浮かべませんか?事実、歴代の天皇陵のなかで多宝塔形式のものは、この近衛天皇陵だけ。その稀少性もあり、安楽寿院を訪れる際は、ぜひご参拝ください。

いかがでしたか?いまでは住宅地のなかにひっそりたたずむ安楽寿院ですが、それでもこれだけの院政期ゆかりのスポットが存在します。近鉄竹田駅から徒歩10分ほどのところにあり、アクセスも快適。安楽寿院を訪れ、平安時代最後の煌きを体現した院政期に思いを馳せてみてください。

安楽寿院の基本情報

住所:京都府京都市伏見区竹田中内畑町74
電話番号:075-601-4168
アクセス:地下鉄・近鉄線「竹田駅」より徒歩約10分

2025年2月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2024/06/23 訪問

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