観音像は像高112.0cm。素材に銅を用いたいわゆる金銅仏です。髻(もとどり)を高く結って、左手には蓮華を持ち、右手は手のひらを正面に向けて親指、薬指、小指を曲げて、人差し指、中指を立てます。
髻、両腕は後に時代に付け加えられたものです。昭和50年の調査報告によれば、像の頭部には宝冠の残欠が残っていたことから胎蔵界大日如来坐像として紹介されています。両腕は盗難にあったそうです・・・。当初はどのような姿をしていたのかが、気になるところ。
髪を盛り上げ、眉を長く、額を広くあらわし、衣文の表現が簡素であるなど、このような作風は鎌倉時代以降の仏像にしばしばみられる特徴です。鋳造技法もこれと矛盾しません。像のバランスの良い表現は一見の価値ありです。
しかし、背面をよく見ると無数の傷が・・・
像の背面には銘文があります。像は室町時代の明応2年(1493)に富士山本宮浅間大社の大宮司であった富士親時、願主として尾張国海西部津嶋(現愛知県津島市)の左衛門太郎によって奉納された像であることがわかります。その作者は河内国(現在の大阪府)の大工、傘林住左衛門尉でした。
実はこの像、元は富士山にあったもので、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際、富士山より降ろされ、この地に行き着いたものだそうです。
廃仏毀釈運動で富士山から降ろされ、行き場の失った仏像たちは麓の民家や寺社に安置されたようです。背面の傷は、山から降ろされる際に引きずられたことが理由かも知れません。
観音像は2008年に富士吉田市歴史民俗博物館(現、ふじさんミュージアム)で開催された「富士の神仏−吉田口登山道の彫像−」でも紹介されました。
文化11年(1814)成立の『甲斐国志』(かいこくし)には、像の制作年代、発願者、作者が一致する仏像の記述があります。しかし、そこに記されているのは鉄造の十一面観音像。今の姿とは違うものです。
なお、江戸時代後期の成立と考えられる『富士山明細図』には、そこには上述の十一面観音菩薩坐像と思われる仏像が描かれています。
このようなことから像は、『甲斐国志』に記された鉄造の十一面観音像との関連が考えられます。
今回ご紹介した観音像は、本来はどのような尊像として造られたのかなど、まだまだ多くの謎を秘めており、興味は尽きません。また、観音像と並んで安置されている大日如来坐像も詳しいことはわかっていません。
富士山の歴史や信仰を知る上で、また美術を学ぶ上で大変重要な作例であるとも考えられます。
帝釈天と世界遺産である富士山のパワーと合わせもつ観音像に会いにいけば、きっと御利益がもらえるはずです!!
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