桶狭間の戦いの舞台となった場所は、名古屋市緑区の閑静な住宅街の一角にありました。現在は桶狭間古戦場公園として整備されています。公園といっても児童公園ほどの広さです。ブランコやすべり台で遊ぶ子供たちの姿のすぐとなりに、この古戦場公園がこじんまりと広がっています。ときおりカメラを抱えた大人たちが、桶狭間の戦いの舞台となったこの場所にやってきますが、本当にここなのかと困惑している人も見受けられました。
この写真の位置まで近づかないと、遠くからでは住宅街の公園にしか見えません。しかし公園入口にはっきりと「桶狭間古戦場公園」と書かれてあり、ここがあの戦いの舞台なのだと確信できました。公園の奥に目をやると、2体の像が確認できます。あれはもしや織田信長と今川義元では・・・
左が織田信長、右が今川義元の像です。織田信長は若々しい青年の像になっていますが、今川義元はひげをたくわえて座っています。桶狭間の戦いのころは織田信長は20代後半、今川義元は40歳前後ですので、2人ともこのような雰囲気だったのではないかと思います。
中学校の歴史を教えている立場として、こういう場所に立つことはとても感動し興奮を覚えます。最近の歴史の教科書では「織田信長は桶狭間の戦いで、大名・今川義元を破った後に勢力を広げ・・・」程度の記述になっていますが、私が学んだ教科書では、今川義元が2万5千ともいわれる軍勢に対し、織田信長はわずか数千人の軍勢で、相手の隙をついて一気に攻め込み勝利した、と書かれていました。
ただし合戦の詳細はいまだにはっきりわかっておらず、最近の教科書では、先述の通り、戦いの名前を簡単に紹介するだけにとどまっています。また桶狭間は、現在名古屋市緑区の地名となっていますが、隣接する豊明市も桶狭間古戦場を整備しており、この場所を決戦地と特定するのではなく、このあたりが決戦の舞台であったという解釈がされています。
石碑には今川義元戦死之地とあり、石碑のまわりには花が供えられていました。豊明市の古戦場にも同様に、戦死の地があり、お墓もあるようです。
今川義元は残念ながら戦死しましたが、その結果織田信長は知名度を上げ、徳川家康は今川氏の支配から解放され、この信長と家康の2名が手を結ぶこととなり、戦国時代の勢力図が大きく変わっていきました。
このように、歴史上の重要な転機となり、また日本の歴史上もっとも華々しい逆転劇と言われる桶狭間の戦い。今川義元の石碑の前で手を合わせる間も、すぐ近くで子どもたちのはしゃぎまわる声が聞こえる不思議な公園です。
有松宿は正式には、東海道五十三次の宿場町ではありません。「鳴海宿」と「池鯉鮒宿」の間にあり「間の宿」と呼ばれる宿場町です。正式な宿場町ではありませんでしたが、名産の「有松絞り」を買う人が多数いたため、なかなかにぎやかな宿場町だったようです。
現在も白壁の土蔵や、格子戸の建物が立ち並び当時のおもかげを残しています。郵便局や銀行などの金融機関も、格子戸風の外観の建物にしてあり、宿場町や街道の雰囲気を壊さないようにしています。
名古屋市はこの有松宿を街並み保存地区に指定し、伝統的建造物や歴史上重要な物件を定め、古い街並みに調和した景観の整備に努めています。電柱を地中に埋めるなどの工事を少しずつ進めており、建物の修理や補修作業に努めています。
アスファルト舗装も、石畳風に替えることができれば旧東海道の雰囲気が感じられ、風情ある町並みになるでしょうね。
有松宿は400年以上続く「有松絞り」の産地でもあります。歌川広重が描いた東海道五十三次の「鳴海宿」には、「鳴海絞り」やこの「有松絞り」の暖簾が描かれています。
この「有松絞り」は江戸時代以降、日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されています。木綿布を藍で染めたもので、多数の技法を駆使して独特の模様が描かれています。
有松宿には、こちらの写真のような「絞り」専門のお店もありますし、「絞り」の歴史や資料を多数展示してある「鳴海・有松絞会館」という施設もあります。この「絞会館」では展示即売もしていますので、気に入った作品や商品をその場で購入することもできます。
合戦の舞台となった桶狭間と有松宿は、同じ名古屋市緑区内にあり、歩いても20分ほどの距離です。歴史上の大きな事件となった場所と、江戸時代の平和な宿場町の雰囲気が両方味わえることができるので、当時を想像しながらゆっくりと歩いてみてはいかがでしょう。
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(2024/10/15更新)
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