写真:乾口 達司
地図を見る大阪府立弥生文化博物館は大阪府和泉市にある歴史博物館。弥生時代をテーマにした博物館としては、日本で唯一です。弥生時代といえば、日本に稲作がもたらされ、人々の暮らしやその生産様式がそれまでの縄文時代とは大きく異なり、変化した時代でありました。稲作の進展はそれぞれの地域を治める「クニ」の発展をうながし、結果として、クニ同士が相争う戦乱の時代をもたらしました。中国の歴史書『魏志倭人伝』や『後漢書東夷伝』などに言及される「倭国大乱」は、その代表的なものであるといえるでしょう。
女王・卑弥呼は2世紀後半に勃発したとされるその「倭国大乱」の後、邪馬台国の女王として「共立」され、歴史の表舞台に登場して来ました。景初3年(239)、卑弥呼は難升米らを中国大陸に派遣。魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられました。ご覧のように、写真では銅鏡を高らかに掲げた卑弥呼の姿が再現されていますが、この時代、銅鏡が権威の象徴でもあったことを踏まえると、実際に卑弥呼がこのように銅鏡を掲げ、国内外にみずからの力を誇示していたことが容易に想像できますね。
写真:乾口 達司
地図を見るもちろん、館内には卑弥呼が君臨した当時のものともされる数多くの銅鏡も展示されています。卑弥呼の統治した時代の銅鏡といえば、卑弥呼に下賜されたとされる三角縁神獣鏡をイメージする人も多いでしょう。しかし、当時の銅鏡が三角縁神獣鏡だけではなく、実に多種多様であったことがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は「卑弥呼の館」。その名のとおり、当時、卑弥呼が暮らしていた館を想像的に再現した模型です。横5メートル、縦3メートルという大型模型で、環濠と城柵によってかこまれた内部には、卑弥呼の館のほかにも政事をつかさどった建物や倉庫、物見櫓なども再現されています。『魏志倭人伝』によると、女王になってから卑弥呼の姿を見たものは少なく、一人の男子が飲食を給仕するために卑弥呼のもとに出入りしていたと記述されています。この館のなかで卑弥呼はどのような暮らしを送っていたのでしょうか。この大型模型を眺めながら、卑弥呼の暮らしに思いを馳せてみてください。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は卑弥呼の食卓を想像的に再現したコーナー。季節は春に設定されており、各地の遺跡から出土した骨や種子などを分析して得られたデータのもとづいて再現されています。野菜を混ぜ込んだ炊き込みご飯を主食とし、マダイの塩焼きや煮物、汁物などが並べられていますが、さすがは邪馬台国の女王であることを印象付けられる食卓ですね。
写真:乾口 達司
地図を見る弥生時代といえば、銅鏡のほか、銅鐸などの銅製品を思い起こす人も多いでしょう。弥生時代をテーマとした当館では、銅鐸をはじめ、各地で出土した銅製品も多数展示されていますが、特に珍しいのは、それらを作る鋳型が展示されていること。写真は各地から出土した銅鐸や銅剣などの鋳型ですが、銅鐸をはじめとする銅製品がこのようなものを使って作られていたこと、ご存知でしたか?
大阪府立弥生文化博物館、いかがでしたか?館内には他にも当館周辺に広がっていた弥生時代の大規模集落「池上曽根遺跡」の遺物なども展示されており、弥生時代を包括的に学ぶことが出来ます。卑弥呼をはじめ、弥生時代の人々がどのように暮らしていたか、当館を訪れ、想像してみてください。
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この記事を書いたナビゲーター
乾口 達司
これまでは日本文学や歴史学の世界で培った見識にもとづいて数多くの評論や書評を執筆してまいりました。奈良生まれ、奈良育ちの生粋の奈良っ子。奈良といえば日本を代表する観光地の一つですが、地元民の立場からい…
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