写真:渡部 洋一
地図を見る江戸時代、日本で唯一西洋に開かれていた長崎は、キリスト教にまつわる歴史が深い教会の街でもあります。中でも大浦天主堂と並んで長崎の教会の代表格と言えるのが、原爆の爆心地から500メートルほど離れた丘の上に建つ浦上天主堂。現在の正式名は「カトリック浦上教会」ですが、旧称である「浦上天主堂」の名で広く一般に知られる教会です。
煉瓦造りの美しい建造物で、特徴的な双塔の高さは約26メートル。建築当時、東洋一の規模を誇るものでした。ここが原爆の悲劇に遭った場所とは思えないほど、ロマネスク様式の壮麗な大聖堂が長崎の空に聳える姿は優美です。
写真:渡部 洋一
地図を見る長崎市街地の北部に位置する浦上は、キリスト教の伝来以来信者の多い土地で、禁教の時代には厳しい迫害の舞台ともなりました。禁制解消後、明治12年(1879年)に小聖堂を築いたのが、浦上教会の発端です。
大聖堂の建設が始まったのは、明治28年(1895年)。東洋一の教会を目指し、完成は時代の変わった大正3年(1914年)、実に19年もの歳月を要した大工事でした。
信徒たちの大切な祈りの場であり、誇りでもあった浦上天主堂を悲劇が襲ったのは、1945年8月9日。アメリカ軍によって原爆が投下されると、爆心地からわずか500メートルほどに位置する浦上天主堂は、爆風を受けて全壊しました。その時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控え天主堂には多数の信徒が集まっていましたが、ある者は原爆の熱線を受け、ある者は崩れた瓦礫の下敷きとなり、その場にいた司祭信徒の全員が死亡するという大惨事となりました。
現在の建物は、昭和34年(1959年)に再建されたもの。煉瓦色の美しき浦上天主堂は、キリスト教徒の心の拠り所として、被爆からの復興のシンボルとして、今も長崎の丘の上に建ち続けています。
写真:渡部 洋一
地図を見る1981年2月25日、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、ここ浦上天主堂を訪れました。その際、「私は栄光と悲劇にいろどられた歴史の町、長崎に来ることができ、しかも悲劇を克服して栄光をかちえた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話しできることを神に感謝しています。私は大いなる愛情と、この地方教会のすばらしいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって、皆さんに挨拶を送ります。」とのお言葉を残されています。
写真は、訪問の翌年に教会入口右手に設置された教皇ヨハネ・パウロ二世の銅像です。
写真:渡部 洋一
地図を見る浦上天主堂から約500メートル、平和公園内にある原子爆弾落下中心地碑のすぐ側に、旧浦上天主堂の遺壁が残されています。倒壊した聖堂の南側の一部をこの場所へ移築し保存した遺構で、原爆の悲惨さを今に伝えています。
長崎市街地の北部、小高い丘に建つ浦上天主堂の歴史と見所をご紹介しました。
古くから異国へと繋がっていた長崎の空に聳えるレンガ色のロマネスク建築は美しく、またこの教会の歩んだ悲劇の歴史は、日本人が忘れてはいけないものを思い起こさせてくれます。この街に息づいたキリスト教の象徴であり、被爆からの復興のシンボルでもある浦上天主堂は、長崎を旅行するなら絶対に外せない必見スポットです。
浦上天主堂へのアクセス、入場料、入場時間等の情報は、記事下部にある「MEMO」よりご覧いただけます。
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(2024/12/6更新)
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