埼玉県行田市にある忍城は、土塁と水堀により区画された東西約2.2キロ、南北約1.5キロの城(いずれも城下町を含む)です。
忍城の「御三階櫓」は、元禄15(1702)年に建設されましたが、明治維新後に解体されてしまいました。かつての御三階櫓と、規模や建っている位置は異なりますが、昭和63(1988)年に再建され、現在は展示室や展望台として、そして行田市のシンボルとして、その役を担っています。
併設された郷土資料館の館内には、行田市の古代から現代まで実物資料が展示されており、家族で歴史を学習する観光地としてオススメですよ!
写真:いなもと かおり
地図を見る天守や櫓といった構築物だけが城ではありません。他にも、城を形成する要素には「土塁(土を盛った防御壁)」や「堀」といった身を守り敵兵を侵入させないための工夫がありました。
戦国時代から江戸時代の城を偲ぶ「遺構」は、郷土博物館の南西部にわずかに残る土塁や、かつて忍城にあった大沼の跡とされる「水城公園」の池が残っています。
写真:いなもと かおり
地図を見る城の名残を歩いて探す城巡りもオススメです。博物館に売っている、昔と今を重ね合わせた『忍城今昔地図』を見ながら歩いてみると、城の規模や今でも残る道の形などを読み取ることができます。
例えば、かつて城の出入り口だった門跡には「碑」が設置され、この場所の役割を示してくれています。忍城で活躍した武将とゆかりのある寺社、城の水堀だった場所が水路として残るなど、痕跡を見つけることが出来ますよ。昔の様子を想像しながら歩くと、まるでタイムスリップしたような気分になりますね!
写真:いなもと かおり
地図を見る天正18(1590)年、豊臣秀吉によって行われた小田原征伐では、秀吉が関東を平定するため、関東各地で北条氏討伐の戦が行われていました。忍城が一躍有名となったきっかけは、小田原征伐の際に石田三成が指揮した「忍城攻め」です。
忍城を落城させるために、三成が仕掛けた作戦がすごいのです!
写真:いなもと かおり
地図を見る周囲を沼地に囲まれ、攻めにくい低湿地にあった忍城を攻略するため、秀吉は三成に「水攻め」を命じました。
三成は、行田の街を一望できる丸墓山古墳(行田市さきたま古墳群のひとつ)に本陣を置き、周囲に総延長28キロとも14キロともいわれる「石田堤」の築堤に取りかかりました。近くを流れる荒川などの水を引き入れ、忍城ごと沈めてしまおうと画策したのです。
実際には城の場所は地形的にやや標高が高かったため水が入ることはなかったようですが、水に囲まれた城の姿はまるで湖に浮いたようだったと後世の軍記物には記されています!
この「石田堤」の一部は、行田市や隣の鴻巣市に現在も残っております!堤を確認できる場所はいくつかありますが、鴻巣市の石田堤史跡公園は特に土塁の高さを実感できる場所となっておりおすすめ。点在する歴史を繋げる作業こそ、“通な”城の巡り方です。
写真:いなもと かおり
地図を見る「石田堤」は予想以上の雨量に耐えきれず決壊したともいわれています(※諸説あります)。2万3000余の石田軍は約3000の兵が籠る忍城を落城させることができないまま、小田原征伐という戦が秀吉の勝利で幕を閉じました。数ある城のなかでも、持ちこたえた城は忍城だけだったといいます。これぞ難攻不落の所以なのです!
忍城のお土産屋さんでは、難攻不落にあやかり「落ちないお守り」が販売されております!特に受験生や就職活動生から大人気ですよ。ちなみに忍城水攻めで活躍した、成田軍・石田軍の武将や甲斐姫を模したキューピーキーホルダーも販売しておりますよ。見た目もかわいらしく、ご当地の土産品としておすすめです。
ちょっとマニアックな忍城巡りはいかがだったでしょうか?忍城では、美男美女の「忍城おもてなし甲冑隊」が演舞を披露し、訪れた人々を楽しませてくれます。行田市には忍城の他に、教科書にも記載されている「さきたま古墳群」や歴史ある寺社が連なり、さらにはB級グルメ「ゼリーフライ」が食べられるお店も多く並んでいますよ。歴史を学べる観光地「忍城」へ、家族を連れて遊びに出かけてみませんか?
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(2024/12/5更新)
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