写真:万葉 りえ
地図を見る世界最古の町として世界遺産にも登録されているコンヤ。ここの歴史はかなり古く、なんと、紀元前8000年前までさかのぼるんですよ。西へと移動してきたトルコ民族が建てた国・セルジュク朝は、このコンヤを王都としました。
製塩業で有名なアクサライもコンヤと同様に古い町。発掘された人骨から、数千年も前に脳の外科手術を行っていたことがわかっています。
そんな古い歴史を持つトルコ内陸部。カイセリから、アクサライ、コンヤを通って地中海沿岸へと、数百年の時をかけて交易路(後の時代になってシルクロードと名付けられた)が形作られていきました。
トルコ系の人々はもともと中央アジアで遊牧生活をし、イスラム教ではない宗教を信仰していました。数世紀にわたって西へと移動していき、9世紀ごろアラル海に進出します。そこで北に向けて進出していたアラブ系ムスリム商人と接触するようになり、イスラム教と出会います。
そして、イスラム化したトルコ人がさらに西へ進んでいき、11世紀頃にセルジュクトルコなどの国を作っていきました。
写真:万葉 りえ
地図を見るセルジュク朝の最盛期のスルタンの一人であるカイクバート1世は、国内の交易路の整備に力を入れました。そのカイクバート1世が寄進した隊商宿(キャラバンサライ)の一つがコンヤとアクサライの間にあるスルタンハヌです。
1229年に建設され、その後火災に見舞われましたが、地域の支配者ハサンによって1278年に復元拡張され、トルコ最大規模の隊商宿となっています。
イスラムの教えの中では「慈善」を大事にしており、セルジュク朝の時代に土地の有力者が慈善事業としてたくさんの隊商宿を建てました。約30kmの間隔で建てられたのは、それが荷を積んだラクダやロバの隊列が一日に移動できる距離だったからです。
写真:万葉 りえ
地図を見るぐるりと厚い頑丈な壁で囲まれ、入り口は一か所だけです。ここまで堅牢なつくりなのは盗賊団への防御のため。のちには警備員を雇ったり、旅人や商品、動物を守るだけでなく、盗難の際には保障する制度までできたといいます。
正面の入り口は大理石。写真でお分かりのようにびっしりと彫刻が施されています。見上げるとすばらしさに圧倒されるはず!門の上部には「善行は神様のおかげ」という言葉もあり、モスクや宮殿の入り口といっても過言ではないでしょう。
内部は中庭を回廊が囲む形で、門から入って右側はラクダなど動物の世話をするオープンなつくり、左側には管理施設や厨房、浴室などがありました。
隊商宿では1日だけでなく3日滞在しても、食事や衣類のみならず、医療、そして動物のエサに至るまですべて無料という手厚いもてなしを受けることができたといいます。
イスラム教の慈善事業というのもあったのでしょうが、交易による多大な利益が得られるということも大きかったようです。より多くの商人が訪れるように便宜を図り、セルジュク朝は繁栄していきました。
写真:万葉 りえ
地図を見る中庭の中心には4つのアーチを持つあずまやがあります。モスクと同じように水場をもうけ、二階部分は礼拝堂になっています。
隊商宿はイスラム教の慈善事業としての意味合いが強いので、祈りの場はやはり施設の中心でした。
表面がはがれてわかりにくくなっていますが、この建物の壁面もアラベスク模様が彫刻されていたといいます。
写真:万葉 りえ
地図を見る中庭の奥にあるのが、太い列柱が立ち並ぶホールになった宿泊室です。
夏は中庭を利用し冬はここで夜を過ごしたといいますが、この地方の冬の夜はかなり冷え込んだことでしょう。15メートルもある高い天井を24本の剛柱が支えており、まるで聖堂のような作りです。主人も運搬人も、男性は身分を問わず皆この広いホールを利用することになっていました。
旅をするのは圧倒的に男性でしたが、女性の旅人がいなかったわけではありません。そんな女性の旅人のために、中庭の左側には女性だけが利用できる部屋も設けられていました。
ただでさえ盗賊などの危険が多い旅。女性で旅をするというのはよほどの理由があってのことでしょう。その部屋でどんな思いで一夜を過ごしていたのでしょうね。
シルクロード。この交易路が歴史に残した影響ははかりしれません。
その交易路を、危険と隣り合わせで荷を運んでいった商人たち。
ここでは、広がる丘陵や雪山など、キャラバンたちが見ていたのと変わらない景色を今も見ることができます。
それらを越えてきた人々に思いをはせ、コンヤとアクサライをつなぐ道の風景もあわせて隊商宿(キャラバンサライ)「スルタン ハヌ」を見ていただければと思います。
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(2024/9/9更新)
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