写真:乾口 達司
地図を見る柳本飛行場は、現在の天理市南方の農村地帯に位置していました。その正式名称は「大和海軍航空隊大和基地」。太平洋戦争中の昭和19年(1944)9月15日から建設がはじめられました。その用地は300ヘクタールといわれ、地元・朝和村の田畑全耕地面積の55パーセントが軍用地として徴収されたとのこと。また、基地周辺には数多くのトンネルが掘られ、一説では非常時の大本営にしようとする目論見もあったといいます。柳本飛行場の重要性がその点からもうかがえるでしょう。
飛行場のメイン施設である滑走路は、長さ1500メートル、幅100メートルの規模を誇っていました。戦後、滑走路は田畑に戻りましたが、興味深いのは、そのうちの800mが現在も生活道路に転用されていること。写真をご覧ください。田畑と接した断面部分をよく見ると、アスファルトの下にコンクリートの一部が顔をのぞかせているのが、おわかりになるでしょう。これが当時の滑走路の痕跡です。私たちが暮らす身近なところに戦争遺産がひっそり眠っていること、驚きですよね。
写真:乾口 達司
地図を見るいまなおたくさんの古墳が残る奈良県。田畑のなかにぽつんと残る写真の被写体も古墳の一つだと思われた方も多いはず。しかし、実はこれ、柳本飛行場の敷地内にあったかつての防空壕なのです。現在も上部には土盛りがなされていますが、建造当時はもっと土が堆積しており、遠くから眺めると、本物の古墳のようだったといわれています。古墳の宝庫・奈良県の特質を巧みに利用し、敵からの攻撃をかわそうとしたアイデア、秀逸だと思いませんか?
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは上で紹介した防空壕から100メートルほど北東に位置する防空壕。ご覧のようにコンクリートがむき出しになっており、先ほどのものよりも防空壕らしさを示しています。注目していただきたいのは、画面左側に小さく見える煙突状のもの。これは内部に空気を入れる空気穴です。こんなものまでちゃんと残されているのは貴重です。
写真:乾口 達司
地図を見るどちらの防空壕も保存状態がよく、内部に通じる開口部も残されています。したがって、内部に立ち入ることも可能ですが、内部には所有者の持ち物と思われる農具なども多数収納されている上、ゴミ類も堆積しており、危険です。無断で立ち入ることは控え、開口部から覗く程度にとどめておきましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る飛行場の建設にともない、それまで当地に存在した施設の多くは撤去されました。それは鎮守の森であった神社もまた例外ではありません。写真は強制的に移転させられた白堤神社の跡地を記念して建てられた石碑。裏面には「広大なる海軍航空隊大和基地跡」という文字が刻まれていますが、戦争遂行のためなら神社まで撤去してしまうという点に戦争の無慈悲さがよく表れていますね。
いかがでしたか?戦争とは無縁の地と思われがちな奈良県にこのような軍事基地が存在したことを、今回、はじめて知った方も多いのではないでしょうか。奈良の観光といえば、古代の遺跡や神社仏閣めぐりが中心になるなか、知られざる戦争遺産にも足を向け、戦争と平和に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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(2023/12/7更新)
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