嵯峨御所とも呼ばれるように、平安時代初期に嵯峨天皇(786年〜842年)が檀林皇后との御成婚のため新しい邸宅を建て、離宮嵯峨院としました。皇孫である恒貞(つねさだ)親王が出家し、恒寂(ごうじゃく)という法名となり、仏法の伝統を受け継ぐ住職である門跡(もんぜき)として、876年(貞観18年)に嵯峨院は大覚寺となります。日本で、もっとも古い門跡寺院です。参拝入口から上がると直ぐに「松に山鳥図」が描かれた大玄関(式台玄関)が広がります。
大玄関(式台玄関)には、安土桃山時代の絵師で織田信長、豊臣秀吉といった天下人に仕え、滋賀・安土城、京都・聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)、大坂城などの障壁画を制作した狩野永徳(1543年〜1590年)によって描かれた「松に山鳥図」があり、訪れた人々の目を一挙に惹きつけます。
旧嵯峨御所、いけばな嵯峨御流総司所、真言宗大本山、心経写経根本道場と様々な顔を持つ大覚寺の玄関として、大役を果たしています。
また書院造りで12の部屋を持つ正寝殿の障壁画には、狩野山楽(1559年〜1635年)の墨絵や渡辺始興(1683年〜1755年)の「四季花鳥の図」「野兎の図」もあり、ほとんど美術館、博物館の様相を呈しています。庭園や大沢池などを含めるならば、植物園としての機能も見ることが出来ます。
諸堂を結ぶ回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光に例えて、「村雨の廊下」という呼称があります。天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は外部侵入者をいち早く知らせる為に、板の上を歩くと軋み音が鳴る仕組みの鶯張りとなっています。回廊を歩くときに、床の軋みや天井の高さを確認しながら進むと、その時代の臨場感をより一層、堪能することができます。
大沢池に張り出した観月台からの名月は松尾芭蕉(1644年〜1694年)の「名月や池をめぐりて夜もすがら」という句にも詠まれているほど有名です。左手奥には多宝塔も聳えています。また、漢詩、管弦、和歌に優れた藤原公任(ふじわらのきんとう:966年〜1041年)が詠んだ小倉百人一首の55番にも載っている「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」の名古曽の滝の石組み跡があります。
池には天神島と菊ヶ島の二つの島と平安時代初期の宮廷画家・巨勢金岡(こせのかなおか:生没年未詳)が配置したといわれる庭湖石があり、この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています。まさしく、芸術の池です。
平安時代、818年(弘仁9年)に疫病が広まり、嵯峨天皇は弘法大師の勧めにより般若心経一巻を書き写し奉りました。合わせて、弘法大師が祈祷したところ、人々に平安が訪れたことから、嵯峨御所大覚寺は心経写経の根本道場としても知られるようになります。
書道、華道、絵画、俳句、短歌といった文化、芸術のインスピレーションの沢山詰まった旧嵯峨御所大覚寺門跡。クリエイターの方はアイディアを、ビジネスマンの方はブレークスルーを求めて、その種子の眠った京都「大覚寺」を楽しんでみて下さい。
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(2024/12/14更新)
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