江戸時代の有名漢詩人・菅茶山の「廉塾」へ〜広島県福山市神辺

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江戸時代の有名漢詩人・菅茶山の「廉塾」へ〜広島県福山市神辺

江戸時代の有名漢詩人・菅茶山の「廉塾」へ〜広島県福山市神辺

更新日:2015/12/03 19:04

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家

広島県福山市神辺には、広島県の国の特別史跡の1つ「廉塾ならびに菅茶山旧宅」があります。もう1つの特別史跡は「安芸の宮島」こと厳島。
福山藩神辺宿で、最初は私塾であったものが、のちに郷校となり「廉塾」と呼ばれるようになりました。この塾を営んだのが漢詩人としての評価も高かった菅茶山(かんちゃざん:1748-1827)でした。時の幕府大学頭林述斎に「詩は茶山」と言わしめた人物。今回は、菅茶山を偲ぶ旅へ。

菅茶山の故郷であり生涯を終えた歴史ある町・神辺

菅茶山の故郷であり生涯を終えた歴史ある町・神辺

写真:村井 マヤ

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写真は、菅茶山の塾があった「廉塾ならびに菅茶山旧宅」を外門から撮影したもの。この菜園は、塾が運営されていた時も菜園としての役割を果たしていました。「廉塾」は、菅茶山が亡くなった文政10(1827)年以降も、後継者によって引き継がれ、近代的な学校制度が制定される明治5(1872)年頃まで存続していました。現在もご子孫の方が住まわれています。塾は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、茶山居宅から構成されています。この場所を訪れると、不思議な静寂と江戸時代の香が漂ってきますよ。

さて、菅茶山が生まれた神辺町は、水野勝成が福山藩の藩主となって福山に城を築くまで、この備後の地において重要な場所でした。周辺では古墳や遺跡も多く発掘されており、古代よりこの地が栄えていたことが分かります。
また、福山市は第二次世界大戦の空襲によって、お城も一部破壊されてしまったこともあり、城下町の風情をほぼ失いました。一方、神辺町には古い佇まいが残っています。たとえば、江戸時代に参勤交代の大名が休泊した神辺本陣が当時の姿そのまま残っていたり、廉塾周辺は江戸時代さながら。神辺本陣については下記MEMOをご覧ください。

菅茶山は、この歴史ある神辺で酒造業と神辺東本陣の主人を務めた本荘屋菅波家の菅波樗平の長男として、延享5(1748)年に生まれました。ちなみに、神辺に現在残っているのは神辺本陣(西本陣)のみです。西本陣である神辺本陣の主人を務めたのは、尾道屋菅波家で、菅茶山の生まれた本荘屋菅波家の本家筋にあたります。

神辺は江戸時代以降は、宿場町として栄えました。しかし、それ以前の1335年頃には神辺平野を一望できる黄葉山に、朝山景連によって神辺城が築城され300年くらいは、城下町だったのです。そのため、宿場町と同時に城下町の風情も味わえます。

塾の成り立ちから、その後の発展

塾の成り立ちから、その後の発展

写真:村井 マヤ

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写真は、廉塾敷地内に文政8(1825*)年につくられた防火用と養魚池を兼ね備えた池。石碑に刻まれている文字は、茶山の揮毫です。

菅茶山とは号で、本姓は菅波、名は晋帥(ときのり)、字は礼卿(れいきょう)で通称は太中です。しかし福山では一般的に菅茶山と呼ばれるので、ここではこの名前を使います。菅茶山が、廉塾(最初は、黄葉夕陽村舎:こうようせきようそんしゃ)を家塾として開いたのは、天明年間(1780年代)の初めごろで、その目的は村の子どもたちの教育のためでした。寛政8(1796)年、茶山は塾の永久的な存続のために塾の施設と田畑を福山藩に献上し、藩の認めた学校・郷校としました。これ以後「廉塾」または「神辺学問所」と呼ばれるようになりました。塾では、漢籍(中国の漢文形態の書物)の講釈が中心で、武士、僧侶、町人など様々な人たちが学びました。

この塾では一時、広島藩脱藩の罪を赦された頼山陽が教鞭をとったこともありました。菅茶山は、江戸や京都に赴くこともあり、頼山陽やその他の都講(塾頭)による講義も行われました。

茶山は、塾の経営にも尽力し、「備後名勝」という備後地方の名勝地の版画を箋紙として販売したりしました。塾生からは特別な授業料は取っていませんでしたが、実費(飲食代及び学用品など)として年間4両2朱(**)必要でした。でもそれだけで塾経営をしたわけはなく、主たる塾経営は、田地から利米の収入だったようです。なかには塾の手伝いをしながら学んだ人もいたのです。

*資料によっては、寛政元(1789)年と書かれているものもありますが、後年の研究等で文政8(1825)年だと考えられています。
**当時の1両は、約10万円くらいの価値です。

廉塾講堂〜筆を洗った用水路も

廉塾講堂〜筆を洗った用水路も

写真:村井 マヤ

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「廉塾」の中門のくぐると、用水路が流れている北側に細長い3部屋続きの講堂があります。写真の用水路に降りるように作られた石段は、生徒たちが筆を洗ったといわれる洗筆場です。

この場所で多くの若者が志を抱いて筆を洗ったのかと想像すると、この学び舎から力をもらえそうです。

また、この「廉塾」には茶山の代表作『黄葉夕陽村舎詩』三篇が世に出て、大ベストセラーになったこともあり、多くの文人も訪れました。また江戸や京都などでも多くの知識人、文化人と交友関係を持ちました。
先に、頼山陽がこの塾にしばらくいたことを述べましたが、頼山陽との交友が知られる女流画家平田玉蘊(1787一1855)も、菅茶山と交流があった著名な人物です。

菅茶山の目指した教育方針とは・・

菅茶山の目指した教育方針とは・・

写真:村井 マヤ

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写真は、廉塾の「濡縁」と「方円の手水鉢」。手水鉢はよく見ると、四角と丸の形をしているのがお分かりでしょうか?これは、「水随方円器」といって「水は方円の器に随う」という荀子(中国の戦国時代末の儒学者、思想家)や韓非子の教訓を形にしたもの。
意味は、「人は環境や教育、交友によってよくも悪くもなる」ということ。

菅茶山は、比較的裕福な家の生まれだったことは、実家が東本陣を務める家柄であったことからも伺えます。ただ、裕福だっただけでなく、父親も母親も文芸や学問に対する造詣が深く理解がありました。そんな家庭環境は、菅茶山の思想形成に大きな影響を及ぼしました。

自分の家庭環境や学問を志す環境から、人間の成長に環境が強く影響することを実感していたのかも知れませんね。

今でも神辺の方々に「菅茶山先生」と慕われる茶山の思想は、確実に地元福山に根付いていて、地元の方々の誇りでもあるようです。それって素晴らしいことですよね。

菅家の方々が眠る墓所〜菅茶山の墓は重要文化財

菅家の方々が眠る墓所〜菅茶山の墓は重要文化財

写真:村井 マヤ

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菅茶山は、文政10(1827)年に亡くなりました。弟子でもあった頼山陽は、師の功績をあますことなく記録しました。養嗣子の菅三(三郎)によって墓碑が建立され、また墓碑には、頼山陽の叔父頼杏坪(らいきょうへい)の撰文が刻まれています。

茶山夫妻には、子供がおらず、文政3(1820)年、茶山の後妻の甥で24歳になっていた門田朴斎を養子にしましたが、文政10(1827)年に朴斎を離縁し、甥で養子であった万年(1811年没)の子・菅三が跡を継ぎました。菅三は、頼山陽などにも師事した後、福山藩の儒学者となりましたが、万延元(1860)年に51歳で亡くなりました。しかし子供がいなかったため、先に挙げた朴斎の次男・晋賢が明治5(1872)年まで「廉塾」を守りました。菅茶山自体は、80歳と長命でしたが、一族は短命な方が多かったようですね。

菅茶山の墓へのアクセスは、車の場合「吉野山公園駐車場」に駐車して徒歩で向かって下さい。

墓参をした後は、お近くの神辺城跡などに行かれても良いと思います。神辺城については少し前述しましたが、南北朝時代から江戸時代初期の城。備後国を代表する城のひとつですが、度重なる改修を受け、江戸時代になると福島氏により近世城郭として整備され、福島氏に替わり入封した水野勝成が福山城築城の際、神辺城の櫓などを使用したため、わずかに痕跡を残すのみとなっています。

現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれているのは、福山市北吉津町の実相寺の山門のほか、明王院の書院、庫裡などです。

神辺本陣や酒屋など商家が立ち並ぶ風情ある町・神辺

菅茶山の実家であった東本陣には、かの天璋院篤姫も宿泊しました。残念ながら東本陣は残っていませんが、神辺本陣(西本陣)は現存していますので、是非「廉塾」とあわせてご覧ください。

風情ある神辺の宿場町の風情を味わってみませんか?神辺には「天寶一」という酒屋もあります。こちらも古い建物で、神辺の町にノスタルジックな雰囲気をより一層引き立てています。日本酒がお好きなら、お土産にされても良いでしょう。

ゆっくり神辺の町歩きも楽しんで下さい。福山の駅周辺やお城周辺とは違う魅力にあふれています。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/07/04 訪問

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