観光のジグソーパズル!小江戸川越「喜多院」を彩る名所ピース散策

観光のジグソーパズル!小江戸川越「喜多院」を彩る名所ピース散策

更新日:2015/09/25 17:03

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
小江戸川越を代表する観光スポットの一つが『喜多院』で、多くの観光客がひっきりなしに訪れる人気スポットです。
しかし、現在の喜多院を語るのに欠かせない歴史や地理・文化など、まるでジグソーパズルのピースをはめ込んで喜多院を造り上げたような、複雑に絡み合った名所があることをご存知でしょうか。
今回は、その喜多院所縁のスポットをご紹介し、喜多院参拝をより楽しめる小江戸川越の見どころをご紹介いたします。

潮の音が聞こえる『川越大師 喜多院』

潮の音が聞こえる『川越大師 喜多院』

写真:Naoyuki 金井

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喜多院の本堂である慈恵堂は、『潮音殿』と呼ばれていることをご存知ですか。かつてお堂の中に佇むと、波の音が聞こえたという噂から名づけられました。
幻聴と云ってしまえばそれまでですが、付近には小仙波貝塚が有るように、古代、喜多院の周辺は海でしたので、あながち噂とは云い切れない浪漫を感じることができます。

その潮の音が聞こえたであろう頃は喜多院ではなく、慈覚大師円仁により平安時代に建立された勅願所『無量寿寺』で、鎌倉時代に尊海僧正により再建された時の無量寿寺は、仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)の三院で構成され、後伏見天皇の命により関東天台宗の本山となります。更に室町時代には、後奈良天皇により星野山の勅額を下され、天台宗の学問所として関東八檀林の一つに指定されるまでになりました。
こうした歴史のなかで、室町時代までは常に仏地院(中院)が無量寿寺の中心的な役割を担って繁栄してきたのです。

無量寿寺の時代の面影を、慈恵堂に掲げられた『潮音殿』の扁額で偲んでください。

喜多院のルーツ『龍池弁財天』

喜多院のルーツ『龍池弁財天』

写真:Naoyuki 金井

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喜多院の東方向に“双子池”と呼ばれる池があり、畔には『龍池弁財天』があります。
住宅街の中にポツンとある湧水を湛えた小さな池で、まるで観光名所には程遠いスポットですが、この池こそが喜多院のルーツとなる龍神伝説を今に伝える、喜多院にとっては外せない隠れた名所なのです。

喜多院周辺が海であった頃、何処からともなく現れた“仙芳仙人”なるものが「霊地を探している」と彷徨していました。そこに龍神で海の主である老人が現れたので、仙人は「私の袈裟を広げただけの土地をいただきたい」と頼みました。
老人は承知し、袈裟を広げて海を干上がらせ数十里の土地を造り仙人に与え、仙人は、ここに無量寿寺の前身のお堂を建立したのです。
これにより龍神の住む海が無くなってしまったので、仙人は小さな池を作り、傍らに龍神のために弁財天を祀り龍神を住まわせました。
これが現在の双子池と龍池弁財天で、以来、この地を“仙波”と呼ぶようになったのです。

現在は喜多院の所有となっている双子池で、喜多院のルーツである龍神伝説を楽しんで下さい。

由緒ある本社『日枝神社』

由緒ある本社『日枝神社』

写真:Naoyuki 金井

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慈覚大師円仁が無量寿寺を建立した際、その鎮守として860年に大津市の日吉大社を勧請したのが『日枝神社』。
日枝神社と云えば東京赤坂が有名ですが、その赤坂日枝神社は、1478年に太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀されたので、ここが赤坂日枝神社の本社になるのです。

元々、喜多院(当時は無量寿寺)境内にあったのですが、県道建設の為、大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して前方部の一部に建設され、代わりに後円部にあった多宝塔が、現在の喜多院の境内に移築されました。本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国重要文化財に指定されており、室町時代末期のものと考えられています。
また、境内の一角には、喜多院七不思議の一つである“底なしの穴”があります。現在は囲いだけですが、かつてこの穴にお札を納めると、約1キロ離れた“龍池弁財天の双子池”に浮いたという伝承が残されており、喜多院とは切っても切れない因縁が残されているのです。

龍神伝説の名残の川越日枝神社で、意外な歴史と由緒を知ってください。

日本三大東照宮『仙波東照宮』

日本三大東照宮『仙波東照宮』

写真:Naoyuki 金井

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徳川家康の庇護の篤い天海僧正が住職となると、寺領が拡大するのに伴い無量寿寺の中心を、それまでの仏地院(中院)から仏蔵院(北院)に移し、この時、名称も“喜多院”と改めたのでした。

家康が亡くなり2代将軍秀忠が遺骸を日光に埋葬しに行く途中、天海僧正は、ここで4日にわたる手厚い法要を行い喜多院の大堂に家康の像を祀ったのです。そして、多くの人に家康を参拝してもらうため、改めて社殿を造り遷祀し“東照大権現”の勅額が下賜され、東照宮の前身となりました。
その後、川越の大火災により延焼した喜多院を再建したのが3代将軍家光です。
再建された建造物の一つが東照宮で、当時の仏地院(中院)を移動させ、その地に建立されたのが現在に残る『仙波東照宮』で、日本三大東照宮の一つとして国の重要文化財に指定されています。
同様に、喜多院の客殿と書院は、当時の江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したもので、家光誕生の間、春日局化粧の間が残る文化財です。

徳川家の庇護によって変貌する、喜多院のターニングポイントを味わってください。

狭山茶発祥の『中院』

狭山茶発祥の『中院』

写真:Naoyuki 金井

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無量寿寺の中心を仏蔵院(北院)に替えられた仏地院(中院)は、仙波東照宮の遷座により追い出される格好で、喜多院の約200メートル南に移され、改めて本堂が創建され『星野山無量寿寺中院』となります。

現在の中院は、落ち着いた佇まいと美しい庭園が有名で、特に春のしだれ桜を始めとした数種の桜が順を追って咲き誇る様は見事の一言です。
また境内には、島崎藤村の義母加藤みき婦人の墓所があることで知られ、藤村もたびたび墓参に訪れており、藤村が義母に贈った茶室「不染亭」や藤村書の「不染の碑」が残されています。
更に興味深いのは、ここが全国的にも有名な“狭山茶”発祥の地であること。元々狭山茶は川越茶と呼ばれ、慈覚大師円仁が開山時に京から茶の実を携えて、中院の境内で薬用として栽培したのが始まりなのです。

現在の喜多院と中院のちょうど中間あたりに、かつての南院がありましたが明治期に廃寺となり、現在はその跡地の一画に数十基の石塔婆を残すだけとなっています。
北・中・南の位置や姿は変わりましたが、無量寿寺の往時の面影がここに存在しているのです。

最後に。。。

喜多院の知られざる歴史はいかがでしたか。
今回ご紹介したスポットは、それほど離れていませんので、季節の良い日に是非ブラッと散策を兼ねて訪れてみてはいかがでしょうか。
小江戸川越の佇まいと、悠久の歴史を楽しんで下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/09/19 訪問

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