橘逸勢(生年未詳〜842年)。こちらの名前をサラリと読めた方は、日本史、また書道に詳しい方だと思います。因みに「たちばなのはやなり」と読みます。
最澄や空海と共に遣唐使として唐に渡り、「橘秀才(きっしゅうさい)」と称された人物。あるいは「承和の変」で容疑者として流罪になってしまった人物。
能書(のうしょ)つまり書にも素晴らしい才能を持ち、空海や嵯峨天皇と一緒に三筆のひとりとして名を連ねています。
では、何故、唐や京の都で活躍していた人物の名を残した神社(写真)が静岡県浜松市北区三ヶ日にあるのでしょうか?
唐の都・長安(現在の西安)の西明寺は、日本の留学者たちの滞在先となっていました。西明寺の瓦が西安で発見されたのを記念して建立されたのが「西安金字塔完成記念碑」。橘逸勢は唐においても学問に秀でていましたが、帰国後の官界での昇進は早くはありませんでした。そして、運命を狂わす出来事が……。
842年(承和9年)に起きた、第55代天皇の座を巡る権力闘争による事件。
元々、次の天皇となる予定であった皇太子、恒貞親王が身の危険を感じ、守ろうとした伴健岑(とものこわみね)とその友人である橘逸勢の動向。その情報を得た藤原良房が言葉巧みに立ち振る舞う――もつれ絡み合う地位、血筋、讒言、画策。
謀反人として伴健岑と橘逸勢は捕らえられ、隠岐と伊豆へ流罪。さらに恒貞(つねさだ)親王は皇太子の地位を失い、代わりに藤原良房の甥である道康親王(後の文徳天皇:もんとくてんのう)が皇太子に。
伴氏、橘氏に打撃を与えただけでなく、同族ライバルの藤原愛発(ふじわらのちかなり)、藤原吉野をも失脚させる事に成功。承和の変の後に、藤原良房は皇族ではない最初の摂政・太政大臣となり、藤原氏繁栄の基礎を築いたのです。
写真は橘逸勢神社の祠。その直ぐ右手には、小さな墓石があります。橘逸勢の墓石です。伊豆への流罪の途中、この地で病に倒れ亡くなってしまったのです。
そして、ここに到るまでの間に、橘逸勢の娘が登場します。
護送の役人に制止されながらも、父・橘逸勢の後を追いかける12歳の幼き娘。罪人とされてしまった父への悲哀と敬慕。遠江板築宿(とおとうみほんつきのうまや:現在の静岡県浜松市北区三ヶ日)に着くと、橘逸勢は病に倒れ、亡くなってしまいます。悲嘆に暮れる娘。出家して尼となり妙冲と号し、父をその地に葬って供養を続けたのです。九年に及ぶ読経と孝行が都に伝わり、帰京と帰葬の許し。853年には文徳天皇による名誉回復がなされました。
この物語は歴史書『日本文徳天皇実録』に記載があり、また『方丈記』の作者、鴨長明が編著した説話集『発心集』に「橘逸勢之女子配所にいたる事」としても取り上げられています。
左手前の石碑が、娘・妙冲の父親・橘逸勢に対する孝を讃え示した「旌孝碑」。奥の観音様が「妙冲観音像」です。その二つの間にあるが「筆塚」となっています。
橘逸勢は二年間、唐に渡り文化の修学に努め、若くして能書と謳われました。『弘法大師書流系図』によると、唐の文学者・政治家である柳宗元に書法を受けたと記述が残っています。
こちらの石碑は『伊都内親王願文』で、桓武天皇の皇女・伊都内親王が山階寺(やましなでら:現在の奈良・興福寺) の東院西堂に香灯読経料を寄進した時、神仏に祈願の内容を伝えた文章である願文(がんもん)。橘逸勢の筆として伝わっています。
書は勿論の事、石碑も美しく壮麗です。書の達人の技術を間近で鑑賞することで、あなたの字も自然と更に上手くなる事でしょう。
橘逸勢の娘が出家して、妙冲と号して尼となりました。同様に恒貞親王も後に仏門に入り恒寂(こうじゃく)と号して、京都・大覚寺の住職である門跡となります。大覚寺は伯父・嵯峨天皇の旧御所でもあります。多くの人々が関連する物語が眠っている浜松「橘逸勢神社」。あなたの光りの当て方で、その物語も様々に変化します。
両親に思いを馳せる人、美文字を目指す人、歴史または書に興味のある人にオススメの場所です。近くには浜名湖があり自然や観光スポットも豊富なので、是非、足を伸ばして訪れてみて下さい。
以上、静岡県浜松市「橘逸勢神社」の御紹介でした。
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(2024/12/14更新)
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