承天寺は、1242年(仁治3年)に公家の高官である大宰少弐・武藤資頼(むとうすけより)が臨済宗の僧・円爾(えんに)を招き、宋出身の貿易商・謝国明(しゃこくめい)の援助により創建されました。1243年(寛元元年)には勅願所官寺となりました。
仏殿「覚皇殿」と、その左手前にあるのがベンチではなく、蒙古の軍船が碇の一部として用いた石で長さ約2メートルの「蒙古碇石(もうこいかりいし)」。供養塔などに転用された事例もあり、珍しいものとして奉納されたと伝わっています。
駿河(現在の静岡)出身の円爾は、1235年(嘉禎元年)に宋に渡り、臨済宗の禅僧・無準師範(ぶじゅんしばん)に学び、1241年(仁治2年)、日本へ帰国後、上陸地の博多で過ごしていました。
博多で疫病が流行った折、お供え物を置く施餓鬼棚(せがきだな)を町人が棒で担ぎ、病魔退散を祈祷しながら聖水を撒く円爾を乗せて、町中を巡りました。このことが博多祇園山笠の始まりとされています。
山笠が奉納のために廻る円周状の道である清道が博多祇園山笠の際に重要な三つの場所に設置されます。櫛田神社境内、東長寺と同様に、承天寺の前にも設けられますが、上記の言い伝えによるものです。
中国の宋より帰国した円爾は、羊羹(ようかん)、饅頭、うどん・蕎麦などの製法とともに、製粉技術も日本に持ち帰りました。この製法・製粉技術により、日本の粉食文化が大きく発展。また謝国明が大晦日に貧しい人々に蕎麦を振る舞った事が、年越し蕎麦の始まりとも言われています。
禅の布教に出向いた先の茶店に訪れると主人から手厚い歓待を受け、その御礼に円爾は米麹を用いた酒饅頭の製法を教えました。加えて「御饅頭所(おんまんじゅうどころ)」の看板も書き与えました。その看板は現在、老舗和菓子店である東京の「虎屋」が所蔵。
左が「饂飩(うどん)・蕎麦発祥之地の碑」で、右が「御饅頭所の碑」。さらに右側に「満田弥三右衛門(みつたやざえもん)の碑」が建立されています。
博多の商人・満田弥三右衛門は、円爾と共に謝国明の船で宋に渡り、織物、朱、箔、素麺、麝香丸(じゃこうがん)の5つの製法を修得。6年後、再び円爾と共に帰国して、これらの製法を博多の人々に伝え、その中の織物技法だけ家伝とし「広東織」と称して独自の工夫を加えていきます。
長い歳月を経て、子孫がさらに研究と改良を重ねて、中国における博多の呼称のひとつ「覇家台(はかた)」を取って「覇家台織」つまり「博多織」と名付けられたと伝えられています。後に江戸時代の福岡藩初代藩主・黒田長政が幕府への献上品としたことから「博多献上」「献上博多」「献上」とも呼ばれるようになりました。
本堂である「方丈」の前には庭園の「洗濤庭(せんとうてい)」。玄界灘を表現した白砂と中国大陸を表現した緑がある枯山水の庭園です。一般には未公開ですがイベント時などに中に入って見ることができます。中門が開いている時には、門外から眺めることは可能。博多千年煌夜ではライトアップ企画が開催され普段とは異なる綺羅びやかな彩りの空間を味わえます。
境内には、博多織の始祖である満田弥三右衛門、歌舞伎を旧派として対比し「新派劇(しんぱげき)の父」と呼ばれる川上音二郎などの墓もあります。
円爾は逝去した後、花園天皇から国師号を与えられ「聖一国師」と称えられました。病魔退散を祈祷して聖水を撒きながら博多の町を巡った善行も、ひとつの要素だったのでしょう。「勢い水」と呼ばれる大量の水を浴びながら博多を走り抜ける現在の博多祇園山笠と重なります。
宋との交易により博多には多くの文化・技術が輸入されました。うどん、蕎麦、饅頭、織物など。知恵や工夫が時代の流れと共に加えられ、さらに後代へと伝承され積み重なる歴史。福岡市博多区にある「承天寺」を訪れて、織り込まれた伝統を感じ取りながら、それぞれの起源に触れてみて下さい。
この記事の関連MEMO
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索