悲運の物語!鎌倉「鎌倉宮」で建武新政のプリンスに思いを馳せる

悲運の物語!鎌倉「鎌倉宮」で建武新政のプリンスに思いを馳せる

更新日:2015/10/22 14:12

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
北朝を支持する鎌倉幕府を倒幕しようとする首謀者、南朝の後醍醐天皇が壱岐に流され、倒幕の企てもここまでと思われた時、現れたのが後醍醐天皇の皇子で、朝廷の輝ける期待の星『護良(もりなが)親王』でした。
若きプリンス護良親王は、楠木正成らとともに鎌倉幕府を見事に滅亡させたのですが、その後の運命は悲しみに満ちたものでした。
今回は、護良親王を祀った『鎌倉宮』を散策し、そのストーリーをご紹介いたします。

討幕の親王

討幕の親王

提供元:Urashimataro(Public Domain)

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1308年に後醍醐天皇の皇子として誕生した護良親王は、6歳の時に出家して尊雲法親王と呼ばれました。しかし、父である後醍醐天皇の倒幕計画が破綻し隠岐に配流となると、尊雲法親王は還俗して名を“護良”と改め、父の代わりに倒幕を決心するのです。

護良親王は、楠木正成らと共に数々の苦戦をものともせず戦い、その間に倒幕を促した令旨を下します。これに呼応して足利尊氏・赤松則村らが、朝廷を監視する出先機関である京都の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉に攻め込んで、一気に時の執権北条一族を滅ぼし、鎌倉幕府倒幕を果たしました。

これが1333年の『建武の新政』と呼ばれるもので、これにより父の後醍醐天皇は南朝の初代天皇となり、護良親王は征夷大将軍につき、朝廷における南朝の系統と政権を確立させたのです。

幽閉の親王

幽閉の親王

写真:Naoyuki 金井

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こうして朝廷のスター護良親王は、後醍醐天皇と共に建武の新政を担ったのです。しかし、六波羅探題をともに落とした足利尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自分が武家の棟梁であることをアピールし始めた為、親王は倒幕後も上洛せず、信貴山(奈良県)を拠点に尊氏を牽制するのです。

こうしている間に尊氏らは悪だくみを図り、親王は、父後醍醐天皇と反目する立場に陥りました。
そして1334年、皇位簒奪を企てたとして京都で捕えられ、尊氏の弟直義のいる鎌倉で監視下に置かれ、当時の東光寺の土牢に閉じ込められたのです。
その翌年、残党を集めた旧幕府の北条時行の軍に敗れた足利直義は、逃れる際に家臣淵辺義博へ親王暗殺を命じ、親王は、28歳という若さでその生涯を閉じました。

境内には、護良親王が幽閉された土牢が復元され、親王の首を置いたという首塚もあり、現在でも参拝のあとが絶ちません。

獅子頭と親王

獅子頭と親王

写真:Naoyuki 金井

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建武の新政と同じように、明治維新によって武士政権(江戸幕府)から政権を取り戻した明治天皇は、この鎌倉宮を始めとして楠木正成を祀る神戸の湊川神社など、建武の新政所縁の南朝の皇族や武将を祭神とする「建武中興(新政)十五社」と呼ばれる神社を創建しました。

ここ鎌倉宮には勿論、護良親王が祀られているのですが、拝殿には大きな『獅子頭』が鎮座しています。
これは護良親王が、戦の時に兜の中に獅子頭を入れて出陣したという故事から、獅子頭が厄除け・開運招来として伝承していることに由来しており、ここ鎌倉宮では、この獅子頭をお守りにして授与しているのです。

参拝の際には、ただ拝むだけではなく、ご自分の思いを一言書いて奉納する『ひとこと願い串』もあり、親王に寄せる思いは、今だ篤いのです。

身代り様と親王

身代り様と親王

写真:Naoyuki 金井

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鎌倉宮には、村上義隆を祀った村上社という摂社があります。
倒幕の戦いの際、護良親王の立てこもる山城が攻められ絶体絶命の危機となった時に、村上義隆が親王の兜・鎧を着て護良親王として自害し、その隙に護良親王は山城から落ち延びたという伝承をもとに建立されたのです。

後世、この美談を語り継ぐため、平成になって境内にあったケヤキの大木で村上義隆の木造を作成し、悪いところをなでると身代わりなって治してくれる『撫で身代わり様』が祀られました。
自分の命を捨ててまで主君を助けようとした行いが感動を呼び、現在は、この像に出会いたい為に参拝する方も多いのです。

『撫で身代わり様』の後ろには参拝者の願いを込めた『身代わり人形』を奉納して、親王と村上義隆を偲んでみましょう。

神石と親王

神石と親王

写真:Naoyuki 金井

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鎌倉宮は、親王の亡くなった東光寺跡に建立したいとの明治天皇の想いから京都御所にあった社を移築し、現在地に僅か1ヶ月半で建立されました。現在宝物殿となっている建物が、当時明治天皇が参拝に来られた際に泊まられた行在所です。

注目は、紫陽花や紅葉で名高い神苑にある、鎌倉宮鎮座100年を記念して福島県の宇津峯神社より送られた宇津峯城跡の山岩です。宇津峯城は、奇しくも後醍醐天皇の孫・守永王(宇津峯宮)を奉じて南朝の北畠顕信が立て籠もった城で、1353年に落城して南北朝の戦いが事実上終結した場所です。

その所縁の城の山岩が、南朝を復活させた護良親王、南朝第2代後村上天皇、そして南朝最後の第4代後亀山天皇に見立てられ、『三つの神石』として南朝の悲痛な歴史を物語っているのです。

最後に。。。

鎌倉時代末期から南北朝時代・室町時代初期の時代は、朝廷の内部抗争に始まった激動の時代でした。本来なら、出家して穏やかな生活を歩む予定であった護良親王は、まさに時代に翻弄された悲運のプリンスと云えるでしょう。

そんな激動の時代を偲ばせる鎌倉宮は、鎌倉では比較的新しい神社でありながら、歴史好きにはたまらない魅力が溢れています。
夏には紫陽花、秋には美しい紅葉も見られますので、一度、参拝されてみてはいかがですか。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/08/22 訪問

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