毛利元就の故郷・広島県安芸高田市で郡山城跡の散策と墓参り

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毛利元就の故郷・広島県安芸高田市で郡山城跡の散策と墓参り

毛利元就の故郷・広島県安芸高田市で郡山城跡の散策と墓参り

更新日:2015/09/07 14:43

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家

戦国武将毛利元就の居城として知られる郡山城は、広島県安芸高田市の吉田盆地を見渡す可愛川(江の川)と多治比川との合流点の北側に築かれ戦国期最大級の山城です。周辺には、毛利家の菩提寺洞春寺跡(現在は山口に移寺されています)や毛利元就とその一族の墓所、元就の長男・隆元の墓所もあります。郡山城のある山は、城跡巡りをしながら登山もできるようになっています。歴史散策と同時に軽い登山も楽しんでみませんか・・。

日本百名城に選ばれた毛利氏の城・郡山城

日本百名城に選ばれた毛利氏の城・郡山城

写真:村井 マヤ

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写真は、郡山城の麓付近から郡山城跡を撮影したもの。今ではすっかり緑に覆われた山ですが、戦国期最大級(東西1.1km、南北0.9km)の山城です。この郡山城は、戦国最高の智将と謳われた毛利元就の居城として知られており、毛利元就と毛利隆元の墓所もこの地にあります。また、周辺には元就の火葬場伝承地や百万一心碑などもあり、郡山城跡を登山するコースもあります。その際、最初に「安芸高田市民俗博物館」に寄り、『郡山城案内図』や、折り畳んでポケットサイズになる『国指定史跡毛利氏城跡 郡山城』と書かれた史跡写真や見どころ説明もついたガイドマップをもらうと便利です。特に登山をされたい方には、必須アイテムでしょう。

郡山城の築城の時期は、はっきりと分かっていませんが、15世紀後半には毛利氏の城であったようです。元就によって16世紀中ごろには、郡山全山が城郭化されました。輝元の時代には、毛利家は広島城へ本拠を移し、さらに関ヶ原合戦後の国替えで廃城となりました。その後広島に入封した浅野家の管理下に置かれ、郡山麓には広島吉田支藩屋敷なども建設されました。
郡山城跡は、昭和15(1940)年には国史跡に指定されました。

郡山城の木々に囲まれ静かに眠る毛利元就

郡山城の木々に囲まれ静かに眠る毛利元就

写真:村井 マヤ

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元亀2(1571)年、毛利元就は75歳の生涯を終えました。翌年菩提寺洞春寺が建立、境内に墓所が建てられました。元就の墓所より一段低い所には(写真右下)、毛利家先祖の合墓と元就の兄・興元、興元の長子幸松丸と、隆元(元就の長男)夫人の墓が並んでいます。
また、元就の墓の一段上(写真左上)には、「嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんし)の墓」もあります。禅師は、2度も明に渡り帰国した高僧で、紫衣を賜り、元就が尊敬して竹原の妙法寺から度々この吉田に招き参禅しました。元就の葬儀の際には、導師を勤め洞春寺を開山しました。

元就の墓所は、前域・後域に分かれています。元就の墓所に行かれましたら、デザインの異なった石灯籠がありますのでそんなところにも注目して下さいね。
まず墓所の前域の手前一列目の石灯籠は、広島藩9代藩主・浅野重晟(しげあきら)、吉田出身の名医土生玄碩、山口県士族18人が奉献したものです。2、3列目は、毛利氏親族が奉献。4列目は、広島藩7代藩主浅野吉長奉献のものです。
後域には、広島藩主浅野吉長寄進の石垣をめぐらしています。偉大なる戦国武将・毛利元就への崇敬の思いなのか、関ヶ原以降の広島藩主浅野家によっても墓所が敬われているのには驚きです。
漂樹の近くには「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑も。毎年7月16日には墓前祭も行われます。

元就の「百万一心」の伝説

元就の「百万一心」の伝説

写真:村井 マヤ

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写真の「百万一心碑」は、昭和6年に吉田郷土史調査会によって建てられたもの。これは、元就が郡山城築城に際し、人柱に代えて「百万一心」と刻まれた大石を鎮めたという伝説に基づいています。

実は、元就が鎮めたという大石ですが、後世幕末に長州藩士武田泰信が、郡山城「姫の丸」壇で発見し拓本を持ち帰ったというのですが、現在、その石は不明。郡山城最大のミステリーなんだとか。謎めいた「百万一心」大石ですね。
この碑の奥、石の柵の向こう側に登山道があります。道なりに歩かれると、幕末に大石が発見されたという「姫の丸」などの史跡もご覧になれます。本丸まで登ることができますので、お時間があればチャレンジして下さい。

「安芸高田市歴史民俗博物館」より本丸まで徒歩で約45分の道のりです。

毛利元就の長男・毛利隆元の墓所

毛利元就の長男・毛利隆元の墓所

写真:村井 マヤ

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郡山城跡は、毛利元就の墓所や隆元の墓所の近くまで車で行くことができます。体力に自信のない方は、遺跡群の「大通院谷遺跡・薬研堀跡」付近の駐車場に車を停めて歩くと便利です。駐車場から郡山城跡に向かって右手が毛利隆元の墓所で、左手が毛利元就・毛利一族の墓所になります。

毛利隆元は、毛利元就の長男ですが41歳で急死したため、弟の吉川元春や小早川隆景たちに比べて知名度が低いかも知れません。偉大な父・元就の下、自分を卑下する所もあったようですが、内政・財務能力に長けており、温厚で篤実な仁将でした。彼の著した訓戒状は、その後萩・長州藩にも引き継がれ、幕末・萩の吉田松陰も隆元を『常永公伝(隆元のこと)』で、「・・仁孝に篤き良将であった。その生涯はまさに平重盛の如く」と述べています。

14歳の頃より大内義隆の人質として山口で生活していましたが、大内氏に大切にされ、また容姿端麗(弟の隆景には劣るが)だったため大内義隆に気に入られていました。そんな隆元は、父・元就によく仕え、父の功績を汚さないように毛利家を支え続けた人生でした。

隆元は、元就の出雲攻略の援護をするため吉田を出発し、途中佐々部(安芸高田市高宮町)で和智誠春(わちまさはる)の接待を受けました。ところが翌朝、永禄6(1563)年8月4日に急死。死因は食中毒とも毒殺とも言われはっきりしていません。隆元の死を聞いた元就の悲嘆ぶりは尋常ではなく、和智誠春及び関係した人物を暗殺の疑いで誅伐、切腹に追い込んだそうです。

そんな隆元の墓碑は「大膳大夫四位下大江隆元朝臣之墓」と刻まれています。菩提寺は常栄寺で墓所付近が常栄寺跡地になります。常栄寺は山口に移り、今では雪舟庭が有名な観光名所になっています。
写真の鳥居をくぐり、階段を登った所に隆元の墓所があります。
息子の輝元がのちに長州・萩の地で生涯を終え、その子孫たちが明治維新の立役者となることなど、きっと想像もしていなかったでしょう。元就も隆元もこの安芸高田市で静かに眠っているのですから。

愛妻家だった隆元は、生涯側室を持たなかったそうです。輝元の母である隆元夫人は、毛利家合墓の隣に眠っています。そう言えば、弟の吉川元春も小早川隆景も側室を持たなかったそうで、特に吉川元春は愛妻家だったと伝わっています。なんだか戦国時代には珍しいエピソードですよね。

「安芸高田市歴史民俗博物館」で毛利氏の歴史も学ぶ!

「安芸高田市歴史民俗博物館」で毛利氏の歴史も学ぶ!

写真:村井 マヤ

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郡山城の麓にある「安芸高田市歴史民俗博物館」は、郡山城跡散策や付近の史跡散策の拠点として便利。また、安芸高田市の古代から近代にわたる貴重な資料も展示されています。特に、2階の常設展示室にある古文書や県重要文化財の「清神社棟札」などは面白い資料と言えます。

また、こちらの博物館では猿掛城など近隣の史跡散策に便利な自転車貸出も行っています。

その他、入館された方には無料で甲冑試着体験もでき、戦国武将気分も味わえますよ。

郡山城下も散策して、毛利元就の息吹を感じる!

郡山城史跡散策を楽しんだら、もう少し足を延ばして城下町散策もしてみて下さいね。例えば郡山城跡からほど近くに「清神社」があります。こちらは、毛利氏が崇拝した戦勝の祈願所でした。現在は、サッカーチーム「サンフレッチェ広島」の必勝祈願所になっています。
郡山城址を訪ねた後、勝負の神様が宿る「清神社」でパワーをもらうのも良いのでは♪

また郡山山麓にある郡山公園は、春は桜、夏はツツジ、秋は紅葉と四季を彩る名庭園が広がっています。この公園は、毛利元就時代に京より観世宗節一行が訪れ能狂言を催した興禅寺跡地なんです。
郡山城跡散策は、史跡と自然を同時に味わえ、毛利元就の息吹も聞こえてきそうな、魅力的なスポットですよ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/08/23 訪問

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