唐沢山城へのアクセスは車が便利です。かつての蔵屋敷があったところにレストハウスがあり駐車場も整備されています。ここから最高所の主郭(本丸)までは300 mほど。この主郭まわりの石垣こそがこのお城の最大の見所です。その高さは最大で8 m。近世のお城を見慣れている人にとってはたいしたことのない高さと思ってしまうかもしれませんが、実は天正20 (1592)年頃に築かれたもので、当時としては異色なものなんです。
唐沢山城の築城時期はもっと前で、史料や発掘調査から15世紀頃というのが有力な説です。もともとは藤原秀郷の末裔を自称する佐野氏による築城ですが、その後、上杉と北条の勢力の抗争に巻き込まれ、上杉軍が駐留したり、北条氏が入城して佐野氏を名乗ったりとそんな歴史を経て、中世山城として整備されていったようです。佐野氏を名乗った北条から再び佐野氏のお城となったのは天正18 (1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めのときで、新城主となったのが佐野房綱という人。この人が秀吉に仕えていたり、秀吉の家臣の子を養子にしたりという経緯から築城技術に長けた人がこの地に来ることになったと思われます。
高石垣の技術についてですが、城郭に導入したのは織田信長で、初期の城は小牧山城(愛知県小牧市)、安土城(滋賀県近江八幡市安土町)など。小牧山城、安土城の築城はそれぞれ永禄6 (1663)年、天正4 (1576)年で、ここから時間をかけて全国に普及していくわけですが、関東への普及の経緯を示す記念碑的なものとして唐沢山城の石垣は極めて貴重なんです。
まず石垣から紹介しましたが、中世城郭では本来石垣はあまり用いられず、土を盛ったり掘ったりして防御性を高めていました。唐沢山城にもそういった遺構がよく残っています。その中でも最大規模なのが四つ目堀といわれる堀です。写真のとおり幅の広い立派な堀です。写真右の斜面の上は帯曲輪(三の丸)と呼ばれる平場で、この端の土塁も重要な中世城郭の遺構です。この付近は駐車場から主郭へ至る通路からもよく見えるので、見逃さないように気をつけて下さい。
唐沢山城の城域はそのまま唐沢山神社に引き継がれています。主郭のある頂上やその周辺は神社の社殿や新しい建物などがあり、歴史的な山城の雰囲気が損なわれていると感じるかもしれません。しかし、広大な山全体が城跡なので、少し離れたところに行けば昔からそのまま残った遺構を見ることができます。
お勧めは2つで、まずは主郭から北東方向の尾根筋の遺構。ここは長門丸(花畠)、平城(金の丸)、杉曲輪、平とや丸(北城)とよばれる曲輪が連続していて、随所に土塁や堀切があります。中でも平とや丸の北東側の二重になった堀切は必見です。
写真は南東側の尾根筋の遺構で、クランク状になった堀切です。この尾根筋は南側の平野部から続く登城路となっていて、西側より勾配が緩いため守りを固める必要があったと思われます。そのため深い堀切がいくつも掘られています。規模の大きな土橋があるのもこのあたりです。土橋というのは、堀を掘るときに一部を残したりして通路としたものです。
ここまでの遺構は山中に残る城郭遺構ですが、山麓部にも屋敷跡などが良好に残っています。西側登り口付近には和泉屋敷、隼人屋敷、家中屋敷と呼ばれる家臣の屋敷跡が見つかっています。また、御台所跡とよばれる所は城主の下屋敷だったところとされていて、発掘調査の結果では庭園があった可能性も示唆されています。ただし、見学者むけの整備はされていないので、その北側に続く栃本公園に行ってみましょう。ここは戦国時代の土塁が小規模で断片的ながら残っているんです(写真)。
このように山麓部の下屋敷や家臣屋敷跡などが山城と一体となって残されていることも、唐沢山城の史跡としての価値を高めています。
唐沢山城の主な見どころを4つほど紹介してみましたが、広大な山城なので、遺構は無数にあります。ぜひ綿密な下調べのもとに訪れてみて下さい。行き当たりばったりの旅も楽しいんですけど、広い城などは大事なものを見逃してしまうことも多いんですよね。下の関連メモ欄に載せた市のウェブサイトでいろいろな情報が公開されているので参考にして下さい。特に「唐沢山城跡全体図」、「唐沢山城跡パンフレット」は城の構造がよくわかるように書かれたいい資料なので要チェックです。また、尾根筋の遺構などを見る場合は、山登りの準備が必要になります。最低でも歩きやすい服装と飲料水の準備をして、安全に見学して下さい。
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(2024/4/20更新)
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