中津城や鶏の唐揚げで有名な大分県中津市。日豊本線・中津駅から歩いて約20分程度の場所に、幼少の頃から青年期までを過ごした住居と様々な資料が取り揃えられた「福澤諭吉旧居・福澤記念館」があります。
中津駅から向かう時の注意事項。駅の北口には、威厳に満ち溢れたオーラを放つ人物の像が建立されています。高い台座の上で腕を組みながら遠い眼差しをしているのは「福沢諭吉先生」。まずは、こちらで御挨拶、もしくは参拝をしてから「福澤諭吉旧居・福澤記念館」に向かいましょう。
1835年(天保5年)に福澤諭吉は大阪の中津藩蔵屋敷で福澤百助の次男として誕生。1年半後に父親・百助が他界。母子6人で中津に戻り生活を再開しました。
最初に住んだ家は大阪赴任前の父親が住んでいた小さな家。現在では残っていませんが、宅跡として写真左手の駐車場脇に石組みで当時の間取りが復元されています。
正面に建っている現存しているものが、その後移り住んだ「福澤諭吉旧宅」です。1803年(享和3年)に建築された木造茅葺きの平屋建。1854年(安政元年)、福澤諭吉が19歳で蘭学を学ぶため長崎に移るまで過ごした家となります。
旧宅は中も見学できるようになっているので、当時の生活の雰囲気を味わうことが出来ます。外から見て想像するよりも広々とした宅内。庭には石碑や木々の他、「しらみ取りの話」「刺客に狙われた話」の案内板などもあります。
平屋建の隣には、木造瓦葺き二階建ての土蔵も当時のまま現存しています。一階は米つき場となっており、二階が福澤諭吉少年の勉強部屋。自分で手直しした土蔵で勉学に励み、後に儒学者・漢学者である白石照山の家塾「晩香堂」でも学びます。こちらの家を出て長崎に遊学、1855年には医師・蘭学者である緒方洪庵が開いた大阪の適塾に移り、さらに学問に打ち込んでいったのです。
旧宅と同じ敷地内に建てられているのが、二階建ての「福澤記念館」。一階は福澤諭吉の生涯を辿る内容。書・手紙・写真などから、一万円札の1号券(A000001B)や1860年(万延元年)に乗船した「咸臨丸(かんりんまる)」の模型も展示されています。
二階は、家族や慶應義塾門下生といった福澤諭吉と深い関係の人物たちが紹介されています。四男五女の子供たち一人ひとりのパネルもあり、じっくりと楽しむことが出来ます。慶應義塾出身で芥川賞作家の朝吹真理子さんの高祖父である、実業家・朝吹英二氏も紹介されています。実業家の他に教育者、政治家も多いので学問・事業・リーダーシップ等のヒントも多く得られます。
福澤諭吉を敬愛する彫刻家・和田嘉平治により、胸像が1930年(昭和5年)に製作されました。戦時中の金属供出により失われましたが、1948年(昭和23年)に同じ台座に改めて製作されたものです。
1858年(安政5年)に福澤諭吉は江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開き、1868年(慶応4年)に塾名を年号に因み「慶應義塾」と定めます。並行して「咸臨丸」での渡米後にはヨーロッパも歴訪。その経験から『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを次々と著し、多くの日本人に影響を与えていったのです。「福澤記念館」では当時の体裁で上記の著作物が展示されています。
書物を読むことだけが学問ではなく、実生活を向上させる全ての物事が学問であると福澤諭吉はその著作で説いています。と言っても、大阪適塾時代には昼夜を問わず福澤諭吉やその他の塾生たちが、喜々として書物を読んで学問に励んでいたのです。応用の前には充分な基礎が必要という事ですね。
よく学びよく考えて目標に向かい行動をすれば、自ずとその成果は表れてくるのでしょう。大分県中津市にある「福澤諭吉旧居・福澤記念館」を訪れて、偉大な教育者・思想家の生涯や精神に学び、日常生活において役立ててみて下さい。
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