吉川元春居館跡と元春・元長親子の墓所へ〜広島県北広島の旅

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吉川元春居館跡と元春・元長親子の墓所へ〜広島県北広島の旅

吉川元春居館跡と元春・元長親子の墓所へ〜広島県北広島の旅

更新日:2015/10/01 17:16

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家

広島県北広島町には、中世の名門吉川氏に関連する史跡が多く残っています。吉川氏は、鎌倉時代末期に駿河国(現在の静岡県静岡市)から大朝本庄の地頭として安芸の国へ。先祖は、藤原南家の系統でした。戦国時代になると毛利元就の次男・元春が養子として吉川氏に入り、乗っ取るような形で吉川氏の跡継ぎとなりました。今回ご紹介する「吉川元春居館跡」は、元春の隠居所でした。この居館跡を含め9つの遺跡は国指定遺跡です。

吉川元春の隠居所だった「吉川元春(きっかわもとはる)館跡」

吉川元春の隠居所だった「吉川元春(きっかわもとはる)館跡」

写真:村井 マヤ

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吉川元春は、自身の居城・日山(ひのやま)城の西南の山麓、志路原(しじはら)川沿いの河岸段丘の上に1583年ころから館を建築し始めました。
長男の元長(もとなが)死後に当主となった三男・広家(ひろいえ)が、1591年に当主となったが出雲に移転したことによって館としての機能を失い、1600年に吉川氏が岩国へ移封され、完全に廃墟になりました。
主な遺構は、石垣、礎石建物跡、曲輪、礎石、土塁、空堀、庭園、井戸などがあります。発掘調査によって、輸入陶磁器や漆器などの生活用品、小犬の土人形や元春が妻に宛てた荷物の札などが見つかっています。

「吉川元春館跡」や吉川氏、館跡の調査についてなどは、「戦国の庭 歴史館」で詳しく紹介されています。場所は、「吉川元春館跡」のある歴史公園の中。この歴史館では、吉川氏関係遺跡である「万徳院(まんとくいん)跡」や「小倉山城跡」の調査の様子、発掘品などの展示も行われています。併せてご覧下さい。

堂々とした佇まいの石垣に当時の面影が偲ばれる

堂々とした佇まいの石垣に当時の面影が偲ばれる

写真:村井 マヤ

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館跡の石垣は、長さ80m、高さ3m、中央に2.6mの門があり。巨石が用いられ積み方も等間隔で石を縦に用い、他は横積みにする等石垣職人の工夫が加えられています。正面の石垣は高さ3mにおよび、特徴のある積み方をしています。柱のように巨大な岩石をまず一定間隔で立て、その間を埋めるように横積みにする手法を用いて築いています。同様の石垣の建築手法は、現在も宮島の厳島神社参道の海側の石垣でも見られ、吉川元春館を築いた石工集団が、この石垣の建設にも関与したことが古文書にも記録されています。

厳島神社は毛利一族にとっても重要な場所だったのでしょう。

滝石組みと三尊石を配した庭園も

滝石組みと三尊石を配した庭園も

写真:村井 マヤ

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写真は、館跡に残る庭園跡。手前の池の背後に、滝石組(写真右奥)と三尊石(写真ほぼ中央)が配されています。

このお庭は、本来は会所(かいしょ)と呼ばれる建物から眺められていました。滝石組の右側には、築地塀(ついじべい)で区画された平庭もあります。戦国時代の庭園が良い状態で残っていることから、国の名勝に指定されています。

庭の他に、便所跡、番所、主殿舎などの建物跡があり、礎石や柱跡を表示して建物の範囲や間取りが分かるようになっています。この中で、復元されているのが台所と附属屋。戦国時代の武士の館の暮らしぶりや当時の建築技術が分かるようになっています。
実は、今回ここではご紹介しませんが、すぐ側の「万徳院跡」にも面白い施設が復元されていますので、少しここでご紹介します。

万徳院は、天正2(1574)年に吉川元長(毛利元就の孫、吉川元春長男)が建立した寺院で、弟の広家が後に吉川氏の菩提寺としました。1600年に吉川氏が山口県岩国市へ移ると同時に建物ごと移転されました。
この「万徳院跡」に復元されているのは、「中世の蒸し風呂」。毎月第3日曜日に実際に体験できるようです。是非お試しあれ!

花崗岩の石切り場も残る館跡

花崗岩の石切り場も残る館跡

写真:村井 マヤ

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写真左奥に見える階段を登ると、館の石垣前に出ます。この石切り場は、館のすぐ側にあり、切り出し途中の石もあって面白い遺構です。

東西7m、高さ約4m、ところどころに長さ10cm、幅8cmの石切りの工具の痕(矢穴/やあな)が残っており、花崗岩の割れ目を上手に利用して石を切り出していたことが伺えます。

このあたりを散策していると、立派な石垣の屋敷跡など見受けられますので、昔から花崗岩を加工する技術が発達していたことも分かりますよ。

武勇に優れ、毛利家を支えた54年の生涯〜元春・元長の墓

武勇に優れ、毛利家を支えた54年の生涯〜元春・元長の墓

写真:村井 マヤ

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館跡の背後には海応寺跡があり、南側には吉川元春・元長・夭折した末子(4男禅岑法師)のものとされる墓所も。

吉川元春は、享禄3(1530)年に吉田郡郡山城で生まれます。父はかの毛利元就、母親は正室妙玖(これは法名)で母の父親は吉川国経でした。この吉川国経の父親が“鬼吉川”と周囲から恐れられた吉川経基です。当時は、吉川家の方が毛利家より各上で、名門でしたから、毛利家を取り込むための結婚だったといえます。しかし夫婦仲は非常に良かったと伝わっています。元春の兄は、隆元、弟は小早川隆景です。この3兄弟はすべて正室妙玖の子供なので、同母の兄弟で、その後の毛利家を支えました。
天文16(1547)年7月、母方の従兄の吉川興経の養子となり、元就によって興経を強制的に隠居させられ、最終的に興経とその子千法師の死で、元春は吉川家を毛利家に引き込むような形で、吉川家の当主となったのです。

こんなことをしたら、元春の母親が悲しみそうですが、吉川家相続は、母親が亡くなってからのことでした。

そんな吉川元春は、毛利両川と言われ弟の隆景とともに毛利家の礎を築き、主に山陰地方の司令官として貢献しました。

天正14(1586)年、豊臣秀吉は輝元を通じて元春の出陣を要請し、元春はすでに隠居の身(長男元長に家督を譲っていました)でしたが九州平定に参加しました。しかしこの頃、病で身体を蝕まれていた元春は、出征先の豊前小倉城二の丸で死去しました。享年54でした。

その父親を追うように、長男・元長も天正15(1587)年5月、出陣先の日向で病に倒れ、6月7日に日向都於郡で病死。享年40でした。2人が眠る墓(写真)は、館跡のさらに奥にあります。一時荒廃していましたが、文政10(1827)年に修復され玉垣・石燈が作られ、明治41(1908)年に改修され現在の形になっています。

周辺の遺跡も見どころ多い!史跡吉川氏城館跡

志路原川を越えた山中に吉川元長が建立した万徳院跡、また、元春夫人が館の完成まで過ごしたと言われる松本屋敷跡などがあります。城郭では、居城となった日山城や小倉山城なども。

駿河丸(するがまる)城跡、小倉山城跡、日山城跡、西禅寺(さいぜんじ)跡、万徳院跡、洞仙寺(とうせんじ)跡、常仙寺(じょうせんじ)跡、松本屋敷跡は、吉川元春館跡とともに一括して国の史跡となっています。お時間があればゆっくりご覧になって下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/08/24 訪問

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