日本のみならず海外とも渡り合い海運業に邁進し、後に“東洋一の海上王”と呼ばれるまでになった三菱グループの創始者・岩崎弥太郎(1835年〜1885年)が生まれた生家が高知県安芸市にあります。
“ごめん・なはり線”の愛称で呼ばれる土佐くろしお鉄道の安芸駅から自動車で約5分の場所が「岩崎弥太郎生家」となります。安芸市内を循環するマイクロバス「元気バス」、「安芸駅ちばさん市場」と「安芸観光情報センター」で無料貸し出しされるレンタサイクルなど移動手段も整っているので、目的や計画に合わせて利用してみて下さい。
生家の東側にある駐車場脇には岩崎弥太郎の銅像が建てられています。1985年(昭和60年)に生誕150年を記念して江ノ川上公園に建立されました。阿南安芸自動車道の工事計画のため2015年(平成27年)にこちらに移設されました。
岩崎弥太郎は1835年(天保5年)、土佐国安芸郡井ノ口村に生まれます。1836年(天保6年)、土佐国土佐郡上町本町(かみまちほんちょう)生まれの坂本龍馬より年齢がひとつ上となります。
幼少の頃は学問に興味をあまり持ちませんでしたが、徐々に歴史書に熱中し始め、詩作で文才を発揮し14歳の時には藩主・山内豊熈(やまうち とよてる)から銀や扇子といった褒賞を授かります。
駐車場側から西、妙見山に向かって小道を進むと左手側に高知県安芸市生まれの作曲家・弘田龍太郎(1892年〜1952年)の「春よ来い」歌碑と東屋があり、向かいの右手側が「岩崎弥太郎生家」の入口となっています。
1963年(昭和38年)に三菱グループ各社の協賛により「岩崎弥太郎生誕之地」の記念碑が建立されました。記念碑の刻文は、三菱財閥の四代目の社長・岩崎小弥太と親交のあった「大漢和辞典」を編纂した漢学の研究者・諸橋轍次によるもの。
岩崎弥太郎の弟・弥之助も、長男・久弥もこちらで生まれています。共に二代、三代と社長を務めており、“三菱発祥の地”とも呼ばれ、日本の近代産業開発の記念すべき場所です。因みに先述の岩崎小弥太は二代目の社長・岩崎弥之助の長男です。
岩崎弥太郎は吉田東洋が開いた少林塾で生涯親交を持つことになる後藤象二郎と出会います。その後に坂本龍馬が発足させた「亀山社中」が改称され「海援隊」となり、経理を担当。海外との取引、経営の合理化、財務整理など、その力量を発揮していきます。
生家にある庭には岩崎弥太郎が少年期に自ら日本列島の形に石を配置したと言われる石組みがあります。日本を俯瞰して見る視野の広さや志の大きさに驚きます。後に“東洋一の海上王”と呼ばれる人物になる片鱗が見て取れます。
土佐藩の貿易を取り扱う「九十九商会」で海運業に従事します。岩崎家の家紋である菱形が縦に大・中・小と三つ重なった“三階菱”。そこに土佐藩主・山内家の家紋である柏の葉・三枚が中央から外側に広がる“三ツ柏”を重ねて「九十九商会」の船の旗印が作られます。
1873年(明治6年)には家紋に因んで「三菱商会」と改称し海運会社と熾烈な競争をしていきます。台湾との外交問題の折には大隈重信から国家のため船舶貸出の要請を受け快諾、大役を果たして信頼を得ました。
「三菱商会」への改称と共にデザインにアレンジを加えて現在のスリーダイヤの形となりました。土蔵の鬼瓦にあるのが岩崎家の家紋“三階菱”で、その下の壁面にあるのが現在のスリーダイヤの三菱マークです。
郵便・海運業を統括する駅逓頭(えきていがしら)で、“郵便の父”とも呼ばれる前島密に認められ、1874年には「郵便汽船三菱会社」と改称して、国内トップの海運会社となります。後に外国汽船会社とも渡り合い“東洋一の海上王”と呼ばれるまでになります。
三菱グループの礎を築き上げた岩崎弥太郎が生まれた場所。また同様に弟・弥之助と長男・久弥も生まれた高知県安芸市「岩崎弥太郎生家」を訪れて、壮大な歴史の流れと岩崎弥太郎たちの大志の熱量を肌で感じてみてはいかがでしょうか。特に就職・転職活動、あるいは起業を考えている方にはオススメです。
以上、高知県安芸市「岩崎弥太郎生家」の御紹介でした。
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