高石垣に埋もれるように立つ巨大な櫓門の埋門が表門となっており、これに多門櫓が隣接しています。門をくぐり、屈曲して石段を登ると、もう本丸に至ります。
緩やかな山の連なりに守られた本丸には天守閣はありません。代わりに、復元の本丸御殿が構えています。正面玄関は銅板葺きの唐破風で、藩主の居館にふさわしい細かな彫刻が施されています。入ってすぐ左に赤絨毯を敷き、楕円形のテーブルに椅子を並べた部屋があり、これが迎賓室です。
奥の上段の間、控の間はさほど大きくありませんが、金色の壁、金色の釘隠し、金色の装飾付きの格天井、と金づくし。龍野に本社を置くヒガシマル醤油株式会社の寄贈により、かつて描かれていた狩野派の障壁画に匹敵する「金泥引・金砂子打」ができあがりました。
江戸幕府の開幕よりしばらく後に築城されたため、籠城戦を戦えるような防衛の工夫はあまりありません。天守閣を設けなかったのも幕府の忌諱を恐れたため、と言われています。龍野藩の矜持は御殿の中に込められた、ということでしょう。
本丸から東には、龍野歴史文化資料館、南西には隅櫓が復元されており、石垣や城壁との連なりが美しいです。
龍野城跡より南西へ徒歩5分程度のところ。「霞城」とは龍野城の別名ですが、城の説明はありません。資料館の趣旨は龍野の輩出した三木露風、内海信之、矢野勘治、三木清の4名の文化人を紹介することです。
三木露風の“早熟の天才”と呼ばれた生い立ち、詩人として大成して数々の文学者と交流しながら北原白秋とともに日本詩界で“白露時代”を築いたことが声高に紹介されています。
なお、趣ある写真の建物は霞城館の隣、矢野勘治記念館です。彼の旧宅を利用した資料館で、彼が作詞したという東京大学教養学部の前身、第一高等学校の寮歌が館内に流れています。明治35(1902)年成立の「嗚呼玉杯に」は5番まであり、なかなか血気盛ん。救国精神を歌う歌詞に当時の雰囲気が実感させられます。
霞城館から西へ徒歩10分くらいの位置です。現在、龍野を象徴するものは龍野城ではなく、こちらの赤とんぼの碑かもしれません。レンガの壁面に銅製の歌碑、五線譜、肖像レリーフが掲げられています。石碑の前に立つと「赤とんぼ」のメロディーが流れるのが面白いです。
やや離れて、三木露風の銅像も立っています。台座の上に、少し小柄なおじいさんが口を真一文字にしてまっすぐ立っています。銅像からも真面目そうな性格がにじみ出ています。
市街を隔てて龍野城跡の背後にある鶏籠(けいろう)山と向かい合うようにあるこんもりとした山が白鷺山です。高さは122メートル。先ほどの赤とんぼの碑を入口にして、全山が白鷺山公園となっています。
山上には「童謡の小径」という遊歩道があり、こちらも面白いです。「赤とんぼ」は勿論、「夕焼け小焼」「七つの子」「みかんの花咲く丘」「ちいさい秋みつけた」などの童謡の刻まれた碑が8基あり、この碑と対峙すると人感センサーが反応してメロディーが流れるようになっています。
高瀬舟で物資を運んでいた時代、龍野は集散地となっており、そのために播磨の中心地として賑わっていました。そんな面影を今に伝える町屋建築などの古い町並みを見るのも楽しい龍野ですが、ふと下を見てみると面白い発見もあります。よくあるのはマンホール。とんぼのあしらわれたご当地感のあるものとなっています。
龍野では、排水路のコンクリートの蓋にもとんぼの模様があしらわれています。これは珍しいと思いますので、龍野に訪れたらぜひ探してみましょう。
龍野は山間の小ぢんまりとした町ですが、風光明媚で「小京都」らしい風格も残しており、文人を輩出したのもうなずける町です。
かつてより醤油造りが盛んで素麺「揖保乃糸」も特産し、これがヒガシマル醤油株式会社に引き継がれたり、兵庫県手延素麵協同組合によって守られていたりしており、これらも町に彩を添えています。
また、赤とんぼや童謡を町の象徴として押し出していることが窺え、例年「新しい童謡コンクール」を催したり、近年のゆるキャラブームから龍野でも赤とんぼをモチーフとしたキャラクターを作るなど、小さい町ながら知恵を絞っている雰囲気が感じられ、これも微笑ましく感じられます。
食にも事欠かない、とんぼの可愛らしい城下町の探訪、いかがでしょうか。
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(2024/12/13更新)
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