後藤新平は関東大震災からの復興で知られる当時の東京市長です。死者・行方不明者約10万5000人に及び、都心部を焦土と化した関東大震災。後藤は「過去の生活はすべて滅び去った。一身上の問題を考えている場合ではない。身命を賭して立ち上がるのは今しかない。」と言い、国費による8億円の帝都復興事業を計画しました。
昭和通り、靖国通り、蔵前通り、三ツ目通りなどの街路を新設するなど大規模なインフラ整備を行い、コンクリート造の小学校の新設など都市の不燃化計画も行いました。東京の都市計画をした後藤の事績に感嘆するとともに、復興の在り方についても考えさせられます。
かつての水沢城の南側を東西に走る吉小路の道に沿って、2軒の武家屋敷が城下町だった往時を偲ばせます。その2軒が奥州市武家住宅資料館と後藤新平旧宅でどちらも見学できる施設となっています。
吉小路の北側に立つのが後藤新平旧宅になります。門の形式は冠木門。後藤新平を輩出した後藤家は、32石の小姓頭で下級武士の家でした。茅葺屋根の主屋で、玄関の間があり、左に座敷、奥に茶の間、右に板の間と土間です。後藤新平はここで勉学に勤しみました。座敷での勤勉な姿が想像されます。
入館は無料。ふらっと訪れて読書するなど静かに時を過ごしたくなるような空間です。
通りの南側に立つのは、家臣筆頭に次ぐ96石を誇った内田家を復元した武家住宅資料館。表門は茅葺薬医門形式です。玄関へのアプローチと隣の表庭は板塀によって隔てられており、格上の来客の場合はアプローチから外れて表庭へ案内し直接、上座敷に通せるようになっている水沢武家屋敷の特徴を分かりやすく示した形式です。
主屋は同じく茅葺屋根。上がると3畳の玄関の間があり、左に同じく3畳の接待部屋、右に次座敷、その先に前述した表庭から通すこともある上座敷と続きます。次座敷の奥に茶の間があり、接待部屋の奥に勝手の間、最奥に板の間と土間で仕舞です。
玄関の間は後藤新平旧宅に比べて非常に小さいですが、こちらは座敷が2つあります。ここに家格の違いが明確に出ているのでしょう。後藤新平旧宅同様、入館無料がうれしいです。
吉小路を西端まで歩くと突き当たるのが斎藤實記念館です。斎藤實(まこと)とは、海軍大将、朝鮮総督を経て首相となり、昭和11(1936)年に二・二六事件で青年将校らによって射殺されてしまった人物になります。
朝鮮総督時代、教育の普及改善、地方制度の改革、産業の開発、交通及び衛生機関の整備等を施政大方針とし、これまで武断統治だった朝鮮の統治を文治統治へ転換したことが知られています。戦争を望まなかった穏和派であり、昭和天皇に信頼され、韓国人にも優れた人物として伝わっています。
彼を物語る多くの資料が展示されており、併設する書庫では彼がどのような書籍を読んで形成されていったのかが分かります。
後藤新平、斎藤實、そして高野長英を加えた3人が“水沢の三偉人”です。幕末の医者であり蘭学者でもある彼はペリー来航以前からの開国派で、幕府批判を著書の中で行ったことから、蛮社の獄により処罰された人物です。
記念館では、波乱万丈な彼の歩みを丁寧に解説しており、水沢で尊敬されている先人であることがよく窺えます。
かつては仙台藩の辺境、今は岩手県の歴史の薫りを残す小さな町。ここからこうした偉人たちが輩出されたのは偶然か、それとも必然か。彼らの事績を知りながら水沢の町が彼らに与えたものは何であったのか、考えさせられます。
「人生観が変わる」なんて大袈裟なことは言いませんが、自分の生きる上での指針となるものが1つ2つ見つかる、そんな町あるき。いかがでしょうか。
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(2024/12/6更新)
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