写真:万葉 りえ
地図を見る「天下竜門」という別名さえ持っているという、南禅寺の三門。力強い禅宗の様式を持つ三門が桜やモミジの波の上に浮かぶように建つ様は、ひと時足を止めて見ていただきたい風景です。
その三門を過ぎると、目に入ってくるのは木々の間に立つなんとも大きな石燈籠。武将、佐久間勝之(かつゆき)が奉納したこの石灯篭は、約6mの高さがあり、東洋一といわれています。
その先に白壁が美しい南禅寺の庫裏(くり)が見えてくると、右手のほうに赤レンガのアーチが続く水路閣(すいろかく)が姿を表します。
琵琶湖から京都へと水をひく計画は、豊臣秀吉が国を治めていた時代からあったそうです。しかし、あまりの難工事のため実現できませんでした。
都が東京へと移り、寂れてしまった京都をなんとか復活させようと再度この計画がもちあがります。明治18(1885)年に着工にこぎつけたのですが、歴史ある南禅寺の境内の中に水路を通すなど現代では考えられない様な計画。当然、反対の声が上がっていたのですが、西洋化を進める当時の状況からか計画が変更されませんでした。
明治23年に水路閣が完成すると、南禅院は水路閣の向こう側に隠れるようになってしまいました。しかし、隔てるように建つおかげからなのか、多くの人で南禅寺が混雑する時期でも南禅院の庭は静かな雰囲気を楽しむことができるのです。
写真:万葉 りえ
地図を見る亀山天皇がこの地の自然を愛でて、母である大宮院のために離宮禅林寺殿を建てたのは1264年のこと。それは鎌倉に幕府があった時代でした。その亀山天皇が法皇の位に変わった後に、それまでの離宮を禅寺に改めたのが南禅寺の始まりになります。
南禅院があるのは、水路閣のアーチをくぐった先にある石段の上。ここは離宮禅林寺殿の時代に「上の宮」があった場所。塔頭(たっちゅう)の一つである南禅院は、南禅寺発祥の地に建てられているのです。
塔頭とは、禅宗で高僧の塔がある所や、本寺の境内にある小寺、または高僧の死後に師の徳を慕って弟子が塔の頭(ほとり)に構えた坊のことなどを言います。
応仁の乱などもあり多くの伽藍が焼失してしまった南禅寺ですが、南禅院の建物は徳川綱吉の母・桂昌院の寄進によって再建されました。
写真:万葉 りえ
地図を見る建物は江戸時代のものでも、庭園は亀山天皇が愛した頃の様子を伝え、鎌倉時代を代表する池泉遊式庭園(ちせんゆうしきていえん)なんですよ。
曹源池と呼ばれた池は竜をかたどり、池の中に島が浮かぶという平安時代の作庭の名残をとどめています。
また、15世紀にかかれた書物には、吉野の桜や難波の葦、竜田の楓などが移植されたと記されています。樹木だけでなく、井出の蛙も放されたということなので、かなり凝って風流の世界を追求したようです。
時は流れたけれど、現在の大きく育った楓も池の上にまで枝を広げ、水の上にあざやかな彩を作ります。その枝が風に揺れるたびに、池にさざ波がたちます。さざ波にゆらめきながら見える映った木々の色は、亀山天皇が見ていたものと変わっていないのかもしれませんね。
水路閣が明治23年に完成すると、翌年には近くで日本初の水力発電所の運転が開始され、明治28年には日本初の路面電車が開業する…など、京都の発展が続きます。
古代ローマの水道橋を手本として作られた水路閣も、百年以上の時が流れると京都の風景の一つとなったようにも見えます。南禅院の裏手に登れば、京都の近代化を推し進めた水が今でもこの水路をとうとうと流れているのを見ることができます。
そんな時代を変えていった物たちのそばにありながら、亀山天皇が母のために造り愛した庭は東山のふもとで今も静かに季節を巡らせています。
この庭で樹木の間を廻りながら、秋を存分に味わってきてくださいね。
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(2023/12/4更新)
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