写真:いなもと かおり
地図を見る天正18(1590)年、東北の抑えとして蒲生氏郷が入城した会津若松城。1592(文禄1)年には、七重天守のそびえる近世城郭へと改修し、若松城と名を改めました。その後も、加藤明成が城主となってから天守、石垣など改修が行われ、東北地方一の要害へと進化をとげます。幕末には、会津戊辰戦争の舞台となり激戦がおこなわれた城でもありました。新政府軍の攻撃を約1ヶ月に渡り耐え抜いた、堅固な城です。
再建された現在の天守は、昭和40(1965)年に外観のみ鉄筋コンクリートで復元された五重の外観復元天守です。明治初頭に撮影された古写真や文献史料をモデルにしています。平成23(2011)年には、天守の屋根瓦を赤瓦に葺き替える工事が行われました。寒さに強く割れにくい赤い瓦は、寒冷地ならでは。
リニューアルされた天守の中にある展示スペースでは、歴代城主の歴史や、幕末期を中心に展示した「常設展」と、年間を通して会津の様々なテーマを取り扱う「企画展」が開催されています。
また、夜間は天守のライトアップもカラーバリエーションが豊富なLEDへとリニューアルされ年間を通じて楽しむことができます。
(※ 時間帯の詳細は関連MEMOにリンクしたサイトをご確認下さい。)
写真:いなもと かおり
地図を見るリニューアルされた天守も魅力的ですが、昔ながらの遺構も素晴らしい!!
二の丸から本丸に向かう廊下橋からは、加藤明成によって築かれたといわれている「高石垣」が確認できます。橋を渡る人のサイズ感から見て、どれほどの高さか想像できるでしょうか?長さ120メートル、高さは20メートル以上!石が加工された打込ハギの石垣は上にいくに従って急な勾配を見せます。
こんな橋を渡ったら、石垣の上から総攻撃を受け一溜まりもありません。攻め手の兵士の気持ちで城を巡ると、臨場感が出て城巡りを何倍も楽しむことができますよ。
また、石垣を築いた際に、蒲生氏郷が苦労したといわれているのが、石の運搬です。特に、太鼓門にある巨石「遊女石」は苦難したそうです。そこで、運ぶ男性陣を勇気づけるために、石の上に遊女を乗せ踊らせて運んだというエピソードが伝わっています。先人の知恵が窺える面白い伝承です。
写真:いなもと かおり
地図を見る会津若松城の太鼓門には、効率よく戦うための工夫がされています。石垣を登った所に兵隊が動き回れるほどのスペースが設けられています。塀や柵を挟んで城内側の空間を「武者走」といい、武士の通路として使用されていました。
さらに、武者走に登るために城内側を階段にした石積みを「雁木(がんぎ)」と呼び、会津若松城の場合は階段を向かい合わせにして造った「合坂」という工夫がなされています。向かい合わせることによって場所を取らずに、一度に多くの兵を登らせることが可能になるという、先人の知恵です。現在、登ることはできませんが、絶好の写真ポイントとなっておりますので、見逃すことのないように、お気をつけてください。
写真:いなもと かおり
地図を見る会津若松城は、東西約2.1キロ、南北1.4キロに渡り、土塁(土を盛った防御壁)と外堀で囲まれた「惣構(そうがまえ)」のあった城です。幅16〜20メートル・深さ4〜6メートルの「水堀」と、その城内側に下幅15〜25メートル・高さ4〜6メートルの「土塁」で守られていました。
会津戦争の後、ほとんどの土塁が外堀の埋め立てのため壊されてしまいましたが、唯一現存する土塁が「天寧寺町土塁」です。民家の間に堂々と佇む土塁は、かつての要塞としての城を彷彿させます。
写真:いなもと かおり
地図を見る小田山陣跡とは、会津戊辰戦争の際、新政府軍(西軍)の砲陣となった場所です。会津若松城の天守とは直線で1360メートル離れた小田山城跡地にありました。アームストロング砲の射程距離は1500メートル程あり、ここから砲撃していた何発かは本丸まで届いていたそうです。当時のことを想像するだけでも恐ろしいですが、平和な世になった現在は美しい街並みが見られる展望地になっています。
小田山陣跡からは、会津若松城下町だけではなく、未完成のまま廃城になった巨大城郭の「神指城」を眺めることもできます。
リニューアルされてパワーアップした会津若松城はいかがだったでしょうか?天守再建50周年を迎えるまでに、天守内部の展示だけではなく、美しい赤瓦を纏う天守閣へと変貌を遂げました。歴史ある「城」としての遺構も残し、戦国〜幕末の時代に想いを馳せることができる会津若松城。タイムトリップ旅をするならば、会津若松城がオススメです!
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(2024/10/15更新)
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