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写真:Isao Noguchi
地図を見る横浜能楽堂の本舞台は1875年、現在の東京国立博物館に程近い東京・上根岸に建てられました。当時は旧加賀藩主、前田斉泰の隠居所であり、大政奉還を前にして既に隠居生活を送っていました。
加賀藩の城下町、金沢は「空から謡が降る」と言われるほど能が盛んな土地です。斉泰も能楽愛好者として知られ、明治天皇の前で「天覧能」として自ら能を舞うほどでした。一時期衰退していた能・狂言の復興に尽力し、近代能楽史に大きな足跡を残しています。それまで「猿楽」として総称されていた能・狂言を「能楽」として普及させたのも斉泰でした。
横浜能楽堂の本舞台は、一般的に建築材として最上級と言われるヒノキを使わず、樅(モミ)という材料を使っています。全体の骨組みが細かく設計され、華やかで温もりのある印象を与えます。また、鏡板に太く大きな松を描かず、細い松に白梅、根元には根笹が描かれているのが特徴です。
写真:Isao Noguchi
地図を見る上根岸にあった能舞台も1919年、旧高松藩主松平家に譲渡されます。それに伴い、東京・染井の松平頼寿邸に移築。この際、移築の指導、監督をしたのが能舞台の研究で名高い建築家の山崎楽堂でした。
1965年に解体されるまで「染井能舞台」として親しまれ、特に戦後は戦災により東京にあった幾つもの舞台が焼失してしまったことなどから、各流がこぞって使用するようになりました。現存する舞台は名人達が数多くいた時代の「生き証人」と言える存在です。解体後は部材として保管されていましたが、横浜市内在住の能楽師から市に寄贈された後、1996年、能楽堂の開館にあたり本舞台として蘇ることになったのです。
通常、舞台というのは観客席と対峙しているものですが、能楽の場合、「正面」「脇正面」とがあり、空間のなかでも四方の隅に設けられている所が興味深いと言えます。見学をさせてもらえる日は無料ですので是非「生の舞台」の空気を体感して下さい。
写真:Isao Noguchi
地図を見る現在、神奈川県立青少年センターおよび県立図書館・音楽堂があった場所には奉行所がありました。紅葉橋を渡り、紅葉坂を登りきった辺りの高台です。伊勢山地区のメインストリートにあり、見晴らしがよく、みなとみらい地区が眺望できます。
横浜開港に伴い1859年、湾港建設の事務にあたった外国奉行、酒井忠行・水野忠徳・村垣範正ら5名に神奈川奉行兼務の辞令がおります。青木町(神奈川区)に会所、戸部村宮ヶ崎(西区)に奉行役所を置き、また横浜村(中央区)には運上所を置いて事務を執りました。この地にあった奉行所は内国司法・行政を取り扱い、運上所では関税及び外務全般の事務を取り扱いました。
1868年、明治政府は新たに「横浜裁判所」を置きましたが、一ヵ月後、「神奈川裁判所」と改められ、運上所並びに奉行所の業務も引き継がれます。その後、神奈川奉行所は廃止され、1870年「神奈川県庁」と改称されることになります。
写真:Isao Noguchi
地図を見るその銅像はあまりにも高くそびえ、真下から見上げると拝顔できないほど、公園内でひと際存在感のある立像です。井伊直弼が礼服を纏って鎮座している肖像画は見たことがありますが、立っているというのは珍しいのではないでしょうか。
江戸時代まで、この周辺は「不動山」と呼ばれる海に面した高台でした。明治初期には、日本初の鉄道開通に関わった外国人技師の官舎が建てられ、鉄道事業の拠点となりました。鉄道開業後もこの山の地下水が鉄道用水に使われたことなどから「鉄道山」と呼ばれるようになりました。1884年、井伊掃部頭直弼(いいかもんのすけなおすけ)にちなみ掃部山となりました。
1909年、横浜開港50周年を記念し井伊直弼の銅像が建立され、同時に井伊直弼の子息直安によって水泉も設置されました。1914年には井伊家よりこの地は横浜市に寄付され、植樹・設備を整え掃部山公園として開園しました。公園には現在200本の八重桜が植えられており、桜の名所としても知られています。
写真:Isao Noguchi
地図を見るみなとみらい地区が再開発される前、伊勢山地区は海の玄関口と言っても過言ではありませんでした。歴史的観点からも外国との窓口はこの地域が担っていたわけであり、現在の地図上では海上から少し奥まった印象を受けますが、その立地条件から横浜文化の発信拠点としての役割は大きかったはずです。
文学・音楽・芸能がこの地で盛んに育まれているのも、街のゆったりとした雰囲気の影響が色濃く表れているからでしょう。中でも1954年に開館した県立音楽堂はすでに60年も経っていますが、デザインは現在も斬新で生きいきとしています。さすが日本の建築20選に選ばれるだけのことはあります。市内初の本格的な音楽ホールとして、横浜の芸術文化を支えてきたシンボルとして、今でもクラシック音楽や学生の演奏会を中心に館内スケジュールは満杯です。
近年は大規模なマンションの建設なども相まって、洗練されたイメージが先行しがちですが、掃部山公園・伊勢山皇大神宮・野毛山動物園の豊かな自然に囲まれているせいか、潮風よりも木々から吹きぬける風の印象のほうが強いような気がします。
伊勢山地区は明治以降に街が賑わいをみせ始めたにも関わらず、開港によって諸外国文化との繋がりが生まれた為、古くから受け継がれてきた歴史的価値の高い、有形・無形文化も違和感なく溶け込んでいきました。
現在はみなとみらい地区にベイサイドの中核を譲ったものの、伊勢山は文化的中心地であり続けています。この地に家族連れや学生たちが足繁く通う様子は、横浜の風土を肌で感じ取っているようで「ハマっ子」の粋はこの風景に凝縮されているといってもいいでしょう。
高台から見下ろす街の景色は、150年間変わらず遠い異国の息吹を受け止め続けているのだと思うと、少しノスタルジックに浸ってしまうのは私だけではないはずです。
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