大仏は像高14・73m。国宝に指定されている仏像の中では、もちろん一番の大きさです。正式名称は盧舎那仏坐像といいます。
像は通肩の衲衣をつけ、右手は手のひらを前に向けて五指を伸ばし、左手は手のひらを上に向けて、蓮華座の上に結跏趺坐(けっかふざ)しています。
本体、台座共に銅造で、本体は下から上に向かって、8回に分けて鋳造されたことが知られています。
近くで見ると、その大きさには本当に圧倒されます。しかし・・・この大仏は度重なる悲劇に見舞われ、そのたびに復興されてきた、悲しくもたくましい歴史をもつ仏像だったのです。
大仏は天平15年(743)に聖武天皇によって発願されました。天皇は大仏造立にあたって、強い決意をもっていたことが、『続日本紀』などの史料に記されています。この最初の大仏は天平勝宝4年(752)に開眼供養(かいげんくよう)されました。まさに「国銅を尽くした」造立でした。
その後、大仏は平安時代の初め頃に頭部が落ちるなどして修理され、貞観3年(861)に2回目の開眼供養がおこなわれています。
治承4年(1180)の平氏の南都焼き討ちは、大仏に大きな損傷を与えました。この時、勧進僧として活躍したのが俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)でした。彼の活躍により、大仏は文治元年(1185)に3回目の開眼供養がおこなわれました。大仏の鋳造を担当したのは、中国宋の工人、陳和卿(ちんなけい)や、日本人の鋳物師たちでした。
室町時代には大仏の表面の修理が行われました。戦国時代になると、再び大仏に難が訪れます。松永久秀の兵火によって、またも大仏は大きなダメージをおってしまうのです。今日の大仏の右手先はこの時の修理の際、つくられたものと考えられています。
そして江戸時代、元禄3年(1690)に大仏は新しい頭部が付け加えられ、元禄5年(1692)に都合4回目の開眼供養を迎えるのでした。
大仏は度重なる災害に負けず、多くの人の尽力によって、今日にその姿を伝えているのです。
幾度の厄災に見舞われた大仏・・・。それでは造立当初の部分はどこなのでしょうか?研究者によって見解は多少変わるものの、本体右腋から下腹にかけて、左右両腕にかかる衣部分、両足、台座の大部分ということになるそうです。
今日見られる大仏は、その大きさもあってかなかなか細かい部分をみることは難しいですが、各時代の鋳造技術者たちの技術を知るうえでも興味が尽きません。
当所の部分が多い大仏の台座。その蓮弁には「蓮華蔵世界図」が線刻されています。写真は精巧に作られたレプリカですが、実際の蓮弁にも同様の釈迦如来を中心に数多くの菩薩が刻まれています。これらは、仏教の世界観をあらわしたものとして貴重です。
刻まれた図像の意味を考えることは少し難しいですが、当時の素晴らしい芸術作品として一見の価値は十分にあります。
今回は東大寺観光の主役である大仏に注目し、その歴史と魅力について触れてきました!大仏は数多くの苦難に屈することなく、今日にたくましい像容を伝えています。
そんな大仏様に会いに行けば、きっと御利益があるはずです!
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