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近鉄大和西大寺駅から東に歩いて十分足らず。突然、目の前に開放的な緑地が出現します。これが平城宮跡です。その敷地は東西1.3キロメートル、南北1キロメートル、面積120ヘクタールにもおよびます。
そのシンボルは、2010年に復原工事が完了した第一次大極殿です。大極殿では、国家儀式や外国からの使節の歓迎式典などがとりおこなわれました。その壮麗さには圧倒されますね。
第一次大極殿から南の方角を眺めると、平城宮全体が、北から南へゆるやかに傾斜していることがうかがえます。これは古くからの「天子南面す」の考えのもと、大極殿が他の宮殿よりも一段高い位置に置かれていたことを表わしています。ご自身が当時の天皇にでもなった気分で、眼下に広がる平城宮跡の景色を楽しんでみてはいかがでしょうか?
写真:乾口 達司
地図を見る第一次大極殿から南へ向かうと、朱雀門に到着します。朱雀門は、平城宮をとりかこんでいた門のなかでもっとも重要な門と位置づけられており、第一次大極殿にさきがけて、1998年に復原されました。
奈良時代、朱雀門から平城京の南端に当たる羅城門までは道幅75メートルにもおよぶ約4キロの朱雀大路が通い、平城京の中軸をなしていました。
中央の柱と柱のあいだ、遠くに第一次大極殿が見えるのが、おわかりになるでしょうか?
写真:乾口 達司
地図を見る写真は、第二次大極殿跡からの眺めです。すでにお気づきの方もいるかと思いますが、平城宮跡には、第一次、第二次と2つの大極殿がありました。第二次大極殿は、740年からの5年間に繰り返された遷都を経て、都がふたたび平城京に戻ってから、内裏の南側、大安殿のあったところに新たに作られました。
現在は石積みの基壇と礎石が復原されています。しかし、それ以前は、大きな土壇として、田畑のなかに残されていました。明治時代、この地を訪れた建築史家の関野貞は、土壇が地元で「大黒の芝」と呼ばれていることを知り、「大黒」が「大極殿」の訛ったものであると推理します。関野の推理は見事的中。平城宮の位置の特定に大きな貢献を果たしたという意味で、第二次大極殿跡は、平城宮跡の原点というべき場所であるといえます。
平城宮跡がどのような経緯で発見され、整備されてきたかに興味のある方は、ぜひ足を運んでみてください。
写真:乾口 達司
地図を見る平城宮は東に張り出した区画をそなえていました。その南半分は『続日本紀』のなかで「東院」と呼ばれており、現在、その南端に当たる区画が「東院庭園」の名で復原されています。天皇や貴族がここで優雅に宴をもよおしたかと思うと、歴史のロマンを感じますね。
写真:乾口 達司
地図を見る一列に並んで植えられている円柱形の樹木。これはツゲの木を円柱形に刈り込み、奈良時代の柱の跡を指し示したものです。ほかにも、築地塀の跡をサザンカの植樹によって表わしたところもあります。自然を活かし、調和をはかりながら、遺跡を復原しようとした先人たちのアイデアには脱帽です。
いかがでしたか?
平城宮跡には、ほかにも平城宮跡資料館や遺構展示館のような資料館も設置されています。それらでは、発掘調査によって見つかった木簡などの出土品も展示されており、平城宮の様子や天皇、貴族たちの暮らしを史料から学ぶのに役立ちます。
もちろん、芝生に座り込み、お弁当を広げて、一日、のんびり過ごすのもよいでしょう。それぞれの目的にあわせて観光を楽しむことが出来るのも、平城宮跡の魅力です。緑に包まれた開放的な空間で、のんびりと天平のロマンにひたってみませんか?
メモ
入場料 : なし(平城宮歴史館のみ一般500円、高校生・大学生250円、小・中学生200円必要)
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(2021/4/16更新)
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