写真:乾口 達司
地図を見る近鉄大和西大寺駅から東に歩いて十分足らず。突然、目の前に開放的な緑地が出現します。これが「平城宮跡(へいじょうきゅうせき)」です。その敷地は東西1.3キロメートル、南北1キロメートル、面積120ヘクタールにもおよびます。
そのシンボルは、2010年(平成22)に復原工事が完了した第一次大極殿です。大極殿では、国家儀式や外国からの使節の歓迎式典などがとりおこなわれました。ご覧のような巨大な建造物で、その規模には圧倒されます。
第一次大極殿から南の方角を眺めると、平城宮全体が、北から南へゆるやかに傾斜していることがうかがえます。これは古くからの「天子南面す」の考えのもと、大極殿が他の宮殿よりも一段高い位置に置かれていたことを表わしています。ご自身が当時の天皇にでもなった気分で、眼下に広がる平城宮跡の景色を楽しんでみてはいかがでしょうか?
写真:乾口 達司
地図を見る写真は第一次大極殿の回廊にしつらえられた宝珠の装飾。平城宮の中枢施設だけあり、細部にまでわたって豪華ですね。
ほかにも、内部には、国家儀礼の際に天皇がすわった高御座なども置かれています。
写真:乾口 達司
地図を見るしかし、第一次大極殿の復原工事はいまだ完成していません。写真は大極殿の前面に立つ大極門(南門)。2022年(令和4)の春に復原された最新の建造物です。
その横の巨大な建物は、東楼を建造するための作業覆屋。最終的には、大極殿をとりかこむように、回廊まで復原される予定です。
その特異な光景は復原工事の期間中のみ。そのあいだにぜひ平城宮跡を訪れてください。
写真:乾口 達司
地図を見る第一次大極殿から南へ向かうと、朱雀門に到着します。朱雀門は、平城宮をとりかこんでいた門のなかでもっとも重要な門と位置づけられており、第一次大極殿にさきがて、1998年(平成10)に復原されました。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は朱雀門から第一次大極殿方面を撮影したもの。第一次大極殿から朱雀門までのスペースがいかに広大であるか、おわかりいただけるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る奈良時代、朱雀門から平城京の南端に当たる羅城門までは道幅75メートルにもおよぶ約4キロの朱雀大路が通い、平城京の中軸をなしていました。現在、その朱雀門の周辺には「平城宮いざない館」などの観光施設が建てられています。平城京や平城宮跡の歩みを学ぶのに格好の施設ゆえ、ぜひ足を運びましょう。
近年は朱雀門前の「朱雀門ひろば」や第一次大極殿前で「平城京天平祭」と銘打ったイベントが定期的にとりおこなわれています。それにあわせて平城宮跡を訪れるのも一計でしょう。次回の「平城京天平祭」は以下のとおりです。
<平城京天平祭2022秋「みつきうまし祭りの基本情報>
日時:2022年10月22日(土)〜10月22日(日)
入場料:無料
写真:乾口 達司
地図を見る写真は第一次大極殿の東方にある基壇。こちらは第二次大極殿跡と呼ばれています。そうのです。実は平城宮跡には、第一次、第二次と2つの大極殿があったのです。
第二次大極殿は、740年(天平12)からの5年間に繰り返された遷都を経て、都がふたたび平城京に戻ってから、内裏の南側、大安殿のあったところに新たに造営されたもの。
現在は写真のような基壇として保存されていますが、平城宮跡の保存整備がはかられる前は、一本の松の木が生えているだけの大きな土壇として、田畑のなかにぽつんと残されていました。明治時代、この地を訪れた建築史家の関野貞は、土壇が地元で「大黒の芝」と呼ばれていることを知り、「大黒」が「大極殿」の訛ったものであると推理します。関野の推理は見事的中。平城宮の位置の特定に大きな貢献を果たしました。その意味で、第二次大極殿跡は、平城宮跡の原点というべき場所なのです。
写真:乾口 達司
地図を見る基壇の上には、復元された礎石などが並んでいます。ここからの眺めは抜群。遠くに見えているのは、第一次大極殿です。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は第二次大極殿から北方を撮影したもの。第二次大極殿の北方には、天皇の住まいである内裏がありました。
その向こうに見える大きな森は「市庭古墳」と呼ばれる5世紀前半頃の古墳。宮内庁は平安時代初期に在位した平城天皇の陵墓に指定しています。築造当時は墳丘の全長253メートルにもおよぶ巨大な前方後円墳でしたが、平城宮を造営する際、前方部が削平され、現在、墳丘として残っているのは後円部のみ。後円部だけが残された理由は諸説ありますが、市庭古墳のように、平城宮(平城京)の造営の際に破壊された古墳が多かったことは、奈良時代の歴史書である『続日本記』にも記されています。
ちなみに、第二次大極殿のあたりにも「神明野古墳」と呼ばれる大型の前方後円墳がありましたが、造営に際して、完全に削平されています。
写真:乾口 達司
地図を見る平城宮は東側に大きく張り出した区画を有する特異な形状をしていました。東側に張り出した区画の南半分は『続日本紀』のなかで「東院」と呼ばれており、現在、その南端に当たる区画が「東院庭園」の名で復原されています。
天皇や貴族がここで優雅に宴をもよおしたかと思うと、歴史のロマンを感じますね。
写真:乾口 達司
地図を見る東院庭園に広がる池では、水底から岸辺まで石を敷き詰めた洲浜や、立石を配した岬がところどころに設けられています。
東院庭園の東に位置する阿弥陀浄土院跡の庭園遺構と並び、古代の庭園の起源を考えるのに貴重な意匠です。
写真:乾口 達司
地図を見る遺構展示館では、出土品のほか、発掘当時の遺構を見学することができます。掘立柱の痕跡や古代のレンガである「磚(せん)」を敷き詰めた遺構も見られ、平城宮の1200年前の面影を見るのに格好の施設です。
写真:乾口 達司
地図を見る遺構展示館や第二次大極殿の周辺を歩くと、土壇の上にたくさんの円柱形の樹木が一列に並んで植えられている光景を目にすることができます。これはツゲの木を円柱形に刈り込み、奈良時代の柱の跡を指し示したものなのです。
ほかにも、築地塀の跡をサザンカの植樹によって表わしたところもありますが、自然を活かし、調和をはかりながら、遺跡を復原しようとした先人たちのアイデアには脱帽ですね。
いかがでしたか?平城宮跡には、ほかにも奈良文化財研究所が管轄する平城宮跡資料館のような資料館も設置されており、発掘調査によって見つかった木簡などの出土品も展示されています。もちろん、芝生に座り込み、お弁当を広げて、一日、のんびり過ごすのもよいでしょう。それぞれの目的にあわせて観光を楽しむことができるのも平城宮跡の魅力であるといえるでしょう。さまざまな目的で平城宮跡を訪れ、奈良時代の息吹きを感じてください。
2022年10月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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