勝連城跡で歴史ロマンを垣間見る〜沖縄の世界遺産最古の城塞へ

勝連城跡で歴史ロマンを垣間見る〜沖縄の世界遺産最古の城塞へ

更新日:2015/11/30 11:13

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
沖縄には『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコの世界遺産に登録された9つの史跡が残っています。その中で、最古のグスク勝連城跡(かつれんじょうあと)は、12世紀から13世紀に築城されたと考えられている城跡。右側から回り込むようにカーブを描く城壁は美しく、標高98mの琉球石灰岩丘陵を上昇しています。美しさだけでなく、海外交易で繁栄し、戦う城の一面も持っていた勝連城。そのグスクの魅力とは・・。

美しいカーブを描く城壁が見事!まるでヨーロッパの城のよう

美しいカーブを描く城壁が見事!まるでヨーロッパの城のよう

写真:村井 マヤ

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沖縄自動車道方面から、勝連(与勝)半島へ向かってドライブし県道16号線をしばらく走ると右側の小高い丘の上に美しい石垣が見えてきます。遠くからみるとまるで、中世ヨーロッパの古城のようです。琉球王国の古いグスク(城塞)である勝連城跡に対する形容としては、「中世ヨーロッパ」とは少しおかしな表現ですが、実際行かれた方はそういう感想を持たれる方も多いかと・・。
沖縄には美しいグスクが多くありますが、一番の特徴は曲線を描く城壁ではないでしょうか。勝連城跡も、標高約98mの琉球石灰岩丘陵を美しくカーブしながら上昇していく城壁が見事なのです。沖縄旅行の楽しみ方は様々ですが、美しい曲線を描くグスク散策も楽しいものです。ぜひ、一度はグスク見学を旅行行程に組み込んでみて下さいね。

今回ご紹介する勝連城跡は、無料で見学ができるグスクです。県道16号線を挟んだ向かい側の「勝連城跡休憩所」か「勝連文化財資料室」の前の駐車スペースに車を停められますが、近くにバス停もありますので、バスでのアクセスも可能です。

詳しくは下記MEMOのHPの「アクセス」のページをご覧下さいね。

写真のような美しい勝連城跡の姿を撮影できるスポットは、ちょうど駐車スペースから歩いて勝連城跡の石碑に向かって歩いていくと右側に現れます。観光客の方は、西原御門(にしはらうじょう)方面から「門口(じょうぐち)のカー」と「仲間ヌウカー」の間の道を通られます。そうすると必ず見えてくる風景ですよ。ここで、ちょっと「カー」について触れてみますね。
「カー」とは「泉」のことで、人々の暮らしに欠かせない水源のことです。グスクを歩いていますとそうした「カー」が至る所に見受けられますので、グスク巡りをする際には注目してみてください。

ちなみに「門口のカー」は、西原御門から城内に入る際に訪問者が手足を清めるために利用しており、身分の低い家臣が利用したと考えられています。

神の祀られる御嶽(うたき)・・沖縄の崇拝文化

神の祀られる御嶽(うたき)・・沖縄の崇拝文化

写真:村井 マヤ

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勝連城跡やその他のグスクを訪れると、「御嶽(うたき)」と呼ばれる場所に遭遇するはずです。大きな遺跡や首里城などでは沢山存在します。勝連城跡もまた、御嶽が多く存在します。御嶽とは、神が祀られる神聖な場所。勝連城跡にはそうした神聖な場所が6つほどあります。写真はその1つである「夫婦ガー(ミートゥガー)」と呼ばれる井戸。大きな岩や木や水をたたえる井戸なども神聖な場所でした。勝連城を巡る際には、下から「ウタミシガー」と呼ばれる吉兆をうらなえる井戸から縁結びの井戸でもある「夫婦ガー」などを見て回ってみましょう。さらに「肝高の御嶽」や「玉ノミウヂ御嶽」などの御嶽では、神人(かみんちゅ)と呼ばれる神職者による宗教儀式が行われました。

勝連城跡には、「マチダ・ナケージカ」と呼ばれる沖縄全域にみられる御嶽の中でも特別な御嶽があります。300年以上の歴史を持つ祈りの場で、西原御門付近です。この御嶽は、王府編纂の地誌『琉球国由来記』に記載されている、「マチダの御嶽」「ナケージの御嶽」に縁起を持つ特別な場所。王国時代より神々とつながっている泉(カー)として神聖視されてきました。

「マチダ・ナケージカ」は、以前は「ヌールガー」と呼ばれていましたが、聞き取り調査より「マチダ・ナケージガー」であることが分かりました。現在も地域の信仰の対象となっています。

このように勝連城跡の散策の際に「御嶽」などに注目しながら歩くことで、人々にとってグスク自体が特別な存在であるのが分かりますね。

もちろん、お城ですので支配者である按司(地方の権力者であり豪族)が統治していたのですが、それだけではない特別な場所といったイメージを抱かれる方も多いでしょう。沖縄のグスクの魅力はそんなところにあるのでしょうね。

防衛機能を備えた階段〜戦術的な城としての一面もチェック

防衛機能を備えた階段〜戦術的な城としての一面もチェック

写真:村井 マヤ

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勝連城には上に行くほど狭くなる階段や下向きに傾斜した階段があり足が滑りやすく、大変上りにくい構造となっています。これは時代を経て傾いたわけではなく、築城当時に、他地域との激しい戦争が繰り広げられており、防衛のための対策であったと考えられています。今では美しい古城といったイメージですが、多くの戦いが繰り広げられた場所だったのです。

勝連城の傾斜した階段には、降雨時に城内の水はけを良くする機能も併せ持ち、当時の建築技術の高さを伺わせます。

二の曲輪の舎殿跡〜首里城正殿のような建物がここに?!

二の曲輪の舎殿跡〜首里城正殿のような建物がここに?!

写真:村井 マヤ

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勝連城の二の曲輪には、正面約17m、奥行き約14.5mの舎殿跡があります。写真のように階段などが残っており、建物があったことを偲ばせます。
首里城正殿のように柱の多い構造で、礎石も多いしっかりとした建物だったことも伺わせます。
また、周辺から大和系瓦が発見されていることから、瓦葺の屋根のある舎殿であったことも分かっています。板葺の屋根が主流だった時代に瓦葺の屋根をもつ建物を建てられたことからも、勝連の繁栄ぶりが分かります。勝連城の発掘調査では、中国の宗・元・明時代の陶磁器や東南アジアの陶器、中国や大和の古銭、玉類、銅製品、鉄製品、甲冑片などが出土しました。

舎殿跡の前の御庭(うなー)に立って、しばし朱塗りの柱や瓦葺の屋根を持った建物を想像してみましょう。確かに、ここに暮らしがあり、この地を治めた統治者が政治に手腕を発揮した舞台なのです。

一の曲輪からの眺め!360度ビューの絶景ポイント

一の曲輪からの眺め!360度ビューの絶景ポイント

写真:村井 マヤ

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勝連城跡を登りつめると、一の曲輪があります。台風に備えて曲線状に築かれた布積みの城壁。
高さ約100m、勝連城内で最も高い位置に築かれた曲輪です。360度を見渡すことができ、周辺離島や本島北部の山々、南部の知念半島まで望むことができます。

この勝連城の10代目の城主・阿麻和利(あまわり:生年不詳〜1458)の時代に、勝連は海外貿易によって繁栄しました。阿麻和利は、勝連城の歴史を語る上で外せない有名な人物。彼は、歴史書の中では、琉球王府に歯向かった悪者として扱われていますが、その後の研究で彼の評価も変わりつつあります。歴史上「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれている戦いによって反逆者の烙印が押されます。天下統一を夢見た阿麻和利でしたが夢破れ、王府軍によって滅ぼされました。この乱のもう1人の主役護佐丸(ごさまる:生年不詳〜1458)も沖縄のグスク巡りをしていると必ず目にする名前。歴史的にも有名な人物ですので、この護佐丸という名前も覚えておいてくださいね。

護佐丸は、名城家として知られ、沖縄の世界遺産である座喜味城(ざきみじょう)や中城城を築城しました。護佐丸は、第6代琉球国王・尚泰久の命によって、勝連城の阿麻和利をけん制するため、中城の地を賜りました。結局、護佐丸は阿麻和利に滅ぼされましたが、阿麻和利もまた、妻・百度踏揚(ももとふみあがり:琉球国王・尚泰久の娘)とその付き人大城賢雄の密告によって、琉球王府によって滅ぼされました。

悲劇の英雄・阿麻和利の勝連城跡からは、南西約10km地点に中城城跡、その先約10.8km地点に首里城と3つの城がほぼ直線上に並んでいます。阿麻和利は、王座への夢を見ていたのでしょうか・・。

阿麻和利の天下統一の夢とロマンの城へ

勝連城跡を巡る際に、英知あふれる統治者でもあった阿麻和利の夢やロマンについて思い浮かべてみてください。

最上層から周囲を見回しながら、琉球統一を夢見た英雄の野望に浸ってみませんか・・。

この記事の関連MEMO

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/09/14 訪問

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