大崎八幡宮はもともと岩出山(政宗の仙台城以前の居城)に鎮座していた大崎地方の鎮守であり、政宗がかねてより深く崇敬していた神社です。そのため、政宗は新たな城下町となった仙台に移し、新たな居城の乾(北西)の守護と新たな居城の都・仙台の総鎮守を大崎八幡宮に任せました。
祭神は、八幡宮で必ず祀られている2神、大和征服を遂げた応神天皇と、応神天皇の母神で新羅遠征に向かった神功皇后。これに加えて、日本武尊の第2子にあたる応神天皇の父神、仲哀天皇の合わせて3柱です。
中央の参道に唐破風を擁した長屋のような門の長床があり、これを抜けると大崎八幡宮の社殿が目に飛び込んできます。屋根は杮葺き。黒漆の棟には金色にした秀吉の五七桐と菊紋が交互・等間隔に並び、千鳥破風に唐破風を重ねた破風は金と黒。垂木は金と赤で、屋根下は赤、青、緑、黄色の極彩色。華やかな限りの桃山建築です。
ひときわ高くそびえる黒漆を基調とした千鳥破風には2対の金色の鶴が舞い、秀吉から拝領した皇室と同じ菊紋も金色で散りばめられ、青海波模様の懸魚、頂上部に改めて大きな菊紋が植物の文様とともにあしらわれており、伊達家の格式の高さをひしひしと感じます。
輪王寺は嘉吉元(1441)年に伊達氏によって創建されました。すなわち、政宗誕生以前から伊達氏の庇護を受けてきた寺院です。伊達氏の居城が変わるたびに輪王寺もこれに従い、仙台にもまた移ってきたのです。
明治維新で藩の庇護を失い、火事で焼失。そのため、仙台に移ってきた当時の建物はありませんが、境内には政宗の8男・竹松丸と政宗夫人・愛姫の母の墓があります。5月中旬には菖蒲の咲きそろう美しい池泉回遊式庭園があり、こちらも見どころです。
なお、周辺には東昌寺、覚範寺、光明寺、資福寺といった伊達家ゆかりの菩提寺や、政宗を祀り明治7(1874)年に創建された青葉神社もあるので、気軽に寺社仏閣めぐりを楽しむことができます。
「此人日の本の武士の心あるものはおしまぬは有るまじき」
こう言ったのは3代将軍・徳川家光。日本の武士に政宗が死ぬことを惜しまぬ人はいないと発し、江戸中の社寺に平癒祈念をさせて病に伏せていた政宗の快復を心から願いました。
また、政宗も自ら徳川家の忠誠を選択し、これが正しかったことを、家光を通してもう少し味わいたい、確かめたい、落涙しながら息子・忠宗にこの想いを託したといわれています。徳川家と伊達家は少しずつ結びつきを強め、家光と政宗の関係はここまでに至りました。この政宗の徳川家への想いが、忠宗に建立させたのがこの仙台東照宮なのです。
参道の先、両脇に伊達家一族家臣により奉献された石燈籠が規則正しく並ぶ清々しい石段が続き、写真の随身(ずいじん)門です。古くも力強い姿に圧倒されます。これを抜けると幣拝殿があり、その奥に本殿が並びます。
政宗の意を継いで2代忠宗が建立したのが仙台東照宮でした。祭神は徳川家康を神格化させた東照大権現。家康が休息したゆかりの地であり、仙台城艮(北東)の守護、すなわち鬼門封じにもなるこの場所に伊達家の財力を全てかけて絢爛豪華に造営したのです。
伊達家の威信をかけて造られた本殿はフェンスと透かし塀に囲まれ、その絢爛豪華な様はほとんど窺うことはできません。しかし、金の三つ葉葵を象嵌した軒丸瓦の美しさはよく判ります。緑の中、美しい銅板本瓦が波打つ本殿からは、何かずっしりとした重みを感じます。きっとこれが武士の忠節の重みなのでしょう。
城下町にある社寺は、時として領主の信仰の姿やその傾倒のほどを物語り、またある時にはどのような城下町づくりを行ったのかを私たちに示します。仙台城下町の社寺をめぐり、関係を紐解くことで、伊達家が何を信仰し、政宗が誰に忠義したのかが見えてくるのです。
仙台に訪れた際は、こうした社寺もめぐってみてはいかがでしょうか。
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(2024/10/16更新)
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