更新日:2013/06/20 18:15
写真:阿部 吾郎
地図を見る国宝姫路城のある姫路駅からJR山陽本線で4駅大阪寄りに、宝殿(ほうでん)という名の駅があります。子供のころ、変な駅名だなと思った記憶があるのですが、その駅名の由来となったのが同駅に近い生石神社にある“石の宝殿”。
ちなみに、近いと言っても宝殿駅から生石神社までは徒歩で25分くらいかかりますので、タクシーを使った方が良いでしょう。
生石神社は小高い岩山の上にあり、写真のように麓にある鳥居から真っ直ぐに石段が神社に向かって伸びているのが目印。境内にある石の宝殿をご神体として、お祀りしています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る階段を登り神社の境内に入ると、すぐ正面に石の宝殿への入り口があります。目に飛び込んできたのは、岩山を刳り貫いて作られた窪地の底に置かれた巨大な石の建造物。狭い空間にあり写真を撮るのがとても難しく、広角レンズを用いているので上の写真では形がゆがんで見えますが、高さ約5.5m、横約6.4m、縦約4.7mの直方体で背面に約1.8mの三角の突起があります。重さは推定500トン、幅約1.6m、深さ約30cmの溝が周囲に刻まれています。正面が少し変色しているように見えるのは、社殿の火事で焼けた跡で、よく見ると剥落したような部分もあります。
また巨石の下に黒い部分がありますが、ここには水が溜まっており小さな池のようになっています。この池に巨石が浮いていると言われており、別名「浮石」ともいいます。もちろん、本当に浮いているわけではなく、底部は岩盤から切り離されておらず繋がったままの状態です。
みなさん、一体これは何だと思いますか?誰が何のために作ったのでしょうか?いつからここにあるのでしょうか?
写真は背面にある突起部分です。これ、家の屋根のように見えませんか?実はこれが上部で正面が底部だという説があります。岩盤と繋がっている現在の底部を切り離し、引き起こして三角の部分を上にすると大きな家のような形になります。家の形をしたオブジェ?ご神体?完成したらどこかに持っていくつもりだったのか?いや、500トンあるものをどうやって運ぶのか?そもそも、これは完成形なのか、作りかけで放棄されたものなのか?謎は深まるばかりです。
写真:阿部 吾郎
地図を見る周りの岩山に登って上から石の宝殿を見ることもできます。この写真ですと全体の形がわかりやすいと思います。
この石の宝殿が書物に出てくる最も古いものは播磨の国風土記。730年前後に編纂された書物で「聖徳太子の時代に物部守屋が作った」と書かれています。つまり奈良時代には既に存在したのであり、かつ記述が本当であるとすれば580年頃(聖徳太子の時代)に作られたことになります。なんと約1300年前には確実に存在し、1500年近くも前からここにあった可能性があるのです。
生石神社略記には古事記や日本書紀に出てくる、オオアナムチとスクナヒコナが国土を治めるにふさわしい石の宮殿を一夜にして作ろうと図ったが、時阿賀の神が反乱をおこしたため鎮圧に向かい、このため未完成に終わったと書かれています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る石の宝殿周辺は竜山といい、古代から現在に至るまで使われている採石場が多くあります。なんと奈良や大阪にある古墳の石棺が、この竜山石で作られています。古墳時代に兵庫県の西部にある高砂(たかさご)から奈良や大阪まで石を運んだというのは驚きです。
さて、最後に石の宝殿とは何なのか?という疑問の答えが出てくるのではと待っていた方、申し訳ありません。答えは「わかりません」です。巨大古墳の中心に据える石郭だという説が比較的有力なようですが、500トンあるものをどこに運んで、どこで古墳を作るつもりだったのかは説明がつきません。ゾロアスター教(拝火教)の祭壇だとか占星台という説もあるようですが、どれも絶対的な説とはなりえていません。
岩盤に囲まれた狭い空間のなかで、この巨石と対面すると圧倒的なパワーを感じます。古代からひっそりとこの場に存在する石の宝殿。私たちに何かを語りかけているようにも感じます。みなさん、是非この地を訪れてそのパワーを感じ、古代のロマンに浸ってみてください。
参考文献
「日本史の謎・石宝殿」間壁忠彦・真壁葭子著 ロッコウブックス
「兵庫県の不思議辞典」有井基・大国正美・橘川真一編 新人物往来社
「生石神社略記」
この記事の関連MEMO
この記事を書いたナビゲーター
阿部 吾郎
「見た人がそこに行きたくなる写真」をテーマに写真を撮っています。私の写真を見て「わー、ここ行ってみたい!」と思っていただければ望外の幸せです。好きなものは、旅・歴史・古い町並み・猫・花・おいしい食べ物…
トラベルjpで250社の旅行をまとめて比較!
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索