遣唐使として唐で真言密教を修めてきた弘法大師・空海(くうかい、774年〜835年)は、807年(大同2年)に自らが生まれ育った讃岐の西端の地、現在の香川県善通寺市に寺院の建立を開始します。813年(弘仁4年)に、金堂、大塔、講堂などを始めとする15の堂塔から成る「善通寺(ぜんつうじ)」が完成。
「善通寺」は空海の父・佐伯直田公(さえき あたいのたぎみ)の諱(いみな)である“善通(よしみち)”に由来すると伝わっています。“東院”と“西院”の二つの院を配した現在の「善通寺」。
空海の創建した元々の「善通寺」は“東院”の場所にあたります。正門の南大門を抜けると、その先には本堂の金堂が見えます。創建当時の建物は兵火により焼失し、現在の南大門、金堂、五重塔などは後に再建されたものになります。
弘法大師・空海の母は、阿刀家の出である玉寄御前(たまよりごぜん)。また叔父は桓武天皇の皇子、伊予親王の家庭教師として、中央の都で活躍していた学者・阿刀大足(あとのおおたり)で、空海に学問を指導した人物です。
「善通寺」の“東院”には空海の父・佐伯直田公と母・玉寄御前を祀った、佐伯祖廟があります。別系譜ではありますが、同じ佐伯氏として佐伯今毛人(さえきのいまえみし)も、空海の幼少期に間接的に影響を与えたと言われています。
佐伯今毛人は奈良・東大寺の造営長官を務め、最終的には遣唐使にも選ばれた人物。実際には病のために唐に渡りませんでしたが、その時の遣唐船は讃岐、現在の香川の沖を通過していったと伝わっています。
幼名・佐伯真魚(さえきのまお)、後の弘法大師・空海の道のりが浮かび上がってきそうな歴史の交錯を感じます。
鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に“誕生院”、現在の“西院”が建立されましたが、江戸時代まで、「善通寺」とは別々の寺院でした。明治時代になり、「善通寺」として一つの寺院になり、現在では真言宗善通寺派の総本山となっています。
元々の「善通寺」のあった現在の“東院”は、寺院の建物を意味する“伽藍(がらん)”とも呼ばれています。“東院”から“西院”へ向かう間には、中門が建立されています。
国の登録有形文化財でもある中門は、江戸時代の後期に建てられたもの。緩い曲線を描く梁(はり)の一種・虹梁(こうりょう)には、雲龍や鶴が彫られています。細かい部分まで、チェックしてみると面白いですよ。
弘法大師・空海の自画像、御影(みえ)を安置しているのが御影堂。母・玉寄御前の御館であり、こちらで空海が誕生したと伝わっています。奥殿には空海直筆の肖像、秘仏の“瞬目(めひき)大師”。
第83代・土御門(つちみかど)天皇が拝観した際に、その尊像が瞬きをした事から、“瞬目大師”と名付けられものです。
御影堂の地下には戒壇めぐりが整い、暗闇の中で自分を見つめ直し、空海と結縁(けちえん)できます。また、後方には、空海が生まれた折に使用された産湯の井戸もあり、まさに生誕の地である事を実感。
加えて、国宝や国の重要文化財が数多く収蔵された宝物館もあり、見所満載です。戒壇めぐり、宝物館は共通の内拝券となっているのも嬉しいポイントで、非常にオススメですよ。
中国の中東部にある河南省。その地に流れる川、洛水を利用し交易によって栄えた町が洛陽です。空海を始めとする遣唐使たちは、唐の都・長安に向かう途上で洛陽を通過。洛水には、史書や詩書にも記された有名な橋、天津橋が架かり、遣唐使たちはその橋を渡って、さらに長安へと歩みを進めたのです。
その天津橋を復元したのが、こちらの済世橋(さいせいばし)。「善通寺」裏の駐車場と“西院”とを結ぶ橋です。その先には、同様に唐風の門、正覚門(しょうがくもん)。「善通寺」にある、南大門、赤門、中門、仁王門と比較しながら、通ってみるとそれぞれの趣きが異なり面白いですよ。
済世橋は、日本海を越え、中国の沿岸から長安を目指して、長旅を続ける遣唐使の気分を味わいながら、また彼らに思いを馳せながら渡ってみましょう。
済世橋の直ぐ近く、「善通寺」裏の駐車場には、中国・西安の青龍寺にある「空海記念碑」を再現した石碑、お土産品等が販売されている物産会館もあるので、要チェックです。
弘法大師・空海の周辺の人物に焦点を当てて、「善通寺」を御紹介しましたが、他にも法然や親鸞にゆかりのある御堂、御塔などもあるので、そちらも併せてお参りしてみて下さい。
以上、和歌山・高野山、京都・東寺と並んで、弘法大師・空海の三大霊跡の一つでもある香川県善通寺市の総本山「善通寺」の御紹介でした。
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