群馬県・沼田城址〜真田幸村の兄、真田信幸と小松姫が守った城〜

群馬県・沼田城址〜真田幸村の兄、真田信幸と小松姫が守った城〜

更新日:2015/11/10 09:48

阿部 吾郎のプロフィール写真 阿部 吾郎 フリーカメラマン、ライター、日本旅のペンクラブ会員、日本旅行写真家協会会員
関ヶ原の戦いで、兄真田信幸は徳川方に、弟真田幸村は石田方について戦った。兄弟で東西に分かれて戦うことになったのは、様々な理由があるが、どちら側が勝っても真田氏が存続できるようにと考えた2人の父、昌幸の策謀によるものとも言われている。
判官びいきもあってか負けた幸村に人気が集まっているが、徳川方に着きその後の真田家を発展させた兄信幸ゆかりの城、群馬県沼田市にある「沼田城」をご紹介しよう。

日本の歴史公園100選に選ばれた沼田公園

日本の歴史公園100選に選ばれた沼田公園

写真:阿部 吾郎

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かつて沼田城があった場所は、現在では沼田公園として整備されており、一部に城の遺構が保存されている他は野球場、テニスコートなどが作られ、市民の憩いの場となっている。
観光の目玉となるような派手な建造物などはないが、歴史好きが訪れれば、城があったころの様子を思い浮かべながら歴史ロマンに浸るには十分な要素がそろっている。

ここで、沼田城の歴史を概観しておこう。
沼田は、古来より北陸から関東への利根川を使った物流の拠点であった。真田氏は北条氏との争いの末、この地を手に入れた。

1578年、上杉家の内紛につけ込み、北条氏が沼田氏より沼田城を奪う。
1590年、秀吉の小田原討伐によって北条氏が滅び、沼田城は真田信幸に預けられた。
1597年、五重の天守が建てられた。関東における五重の天守は沼田城だけであった。
1681年、真田氏改易後幕府によって破却。その後、城が本格的に再建されることはなかった。

沼田公園のシンボル「鐘撞堂」

沼田公園のシンボル「鐘撞堂」

写真:阿部 吾郎

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沼田公園のシンボルとなっている「鐘撞堂」は、真田氏時代の沼田城内にあったものの復元で、昭和58年に建てられた。復元された当時は、1634年に鋳造され沼田城三の丸で時の鐘として使われていたものが掛けられていたが、現在は老朽化のためレプリカが掛けられており、本物は沼田中央公民館に保存されている。

城跡からの眺め

城跡からの眺め

写真:阿部 吾郎

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鐘撞堂の横にある小さな展望台からの眺めが上の写真である。広い公園内を歩いているだけでは実感できないのだが、こうして見るとこの場所が高台にあり、この地域においては城を建てるのに絶好の場所であることが分かる。
確かにこの場所なら、城下が一望でき、敵が攻めてきてもその様子が手に取るようにわかるであろう。

当時の石組みが残る西櫓台跡

当時の石組みが残る西櫓台跡

写真:阿部 吾郎

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1681年に真田氏の改易により破却された沼田城だが、石組みの一部は完全に破壊されず埋められていた。この西櫓台跡の石組みの階段は、発掘調査によって発見されたものだ。一緒に出土した瓦などから、真田時代のものであることが確認されている。

沼田城西北端の石垣

沼田城西北端の石垣

写真:阿部 吾郎

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先ほどの石組みの階段の裏側には、立派な石垣が残されている。これも西櫓台の一部で、沼田城の西北端にあたる部分である。この石垣の上には、真田時代から残る樹齢400年の御殿桜があり、現在でも春には美しい花を咲かせる。
この場所の他、野球場の入口付近、本丸御門跡にある小さな池の石垣の一部は、真田時代のものである。
公園内には、国取りシュミレーションゲーム「戦国無双」のキャラクターの真田信幸と小松姫の看板があり、ゲームファンもこの地を訪れているようだ。

もう一人の主役「小松姫」

最後に、沼田城のもう一人の主役「小松姫」をご紹介しておこう。
真田信幸の正妻で、徳川四天皇の一人本田忠勝の娘である。秀吉の養女となってから信幸に嫁いだ。関ヶ原の戦いの際、信幸の父昌幸と弟幸村が城を訪れた際、留守を守っていた小松姫は鎧で身を固め、「親族といえども敵味方に分かれたからには入れることはできぬ」と2人の入城を拒んだと言われている。気丈で美しい女性であったと伝えられており、歴史ファンの間では人気が高い。

平成28年の大河ドラマ「真田丸」に合わせ、3月には沼田市内に「大河ドラマ展」がオープン予定だ。真田というと上田城が有名だが、是非沼田にも足を運んでいただきたい。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/10/23 訪問

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