修禅寺は弘法大師が807年に開いたとされる由緒ある寺院です。夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修禅寺物語」などの舞台になったことでも知られています。また、境内の宝物殿には歌川広重が描いた「修禅寺湯治場」や、修禅寺の再興に尽力した北条早雲の寄進状などが展示されています(拝観は有料)。
寺院は臨済宗に改宗後、1361年の畠山氏と足利氏の戦乱に巻き込まれ荒廃し、大火災によって焼失しました。その後北条早雲が曹洞宗の寺院として再建。 現在の本堂は明治時代に再建されたもので、本尊である大日如来は弘法大師が創建した当時のものと変わっていません。
「修禅寺」の名が世に広まったのは、鎌倉幕府2代将軍源頼家が幽閉され、非業の死を遂げた幕府内での派閥抗争です。頼家の魂をなぐさめるために元の「禅」の字を名乗ったことからも、当時の庶民や寺院関係者に深い影を落としたことが伺えます。源氏の親族内で起こった惨劇は動乱の世の悲劇とされ、後世「修禅寺物語」が創作されるきっかけとなりました。
これぞ、「心身共に清められた!」と、実感できる場所ではないでしょうか。修善寺の境内にある手水舎は、なんと水ではなくは温泉が流れています。手のひらから全身に温かさが伝わり、足湯のじんわり感とは一味違った癒しを実感できます。冬場に参拝する際にはなんともありがたい限りで、散策で疲れた手足にジーンと染み渡ります。
修善寺温泉は寺院の開基と同年に弘法大使が、ある親子に温泉治療を説いたことに始まると伝えられています。逸話として、桂川で病んだ父親の体を洗う少年を気に留めた弘法大使は、その孝行する姿に感心して「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵で川の中の岩盤を打って霊泉を湧出させ、この湯で看病すると良いと教えたそうです。
修善寺温泉のシンボルであり、宗教的な観点からの重要性はもちろんのこと、木造建築物としての本堂を含めた境内は見る価値充分といえるでしょう。
日枝神社は修禅寺の鬼門にあたり、弘法大師が建立したとも伝えられています。1868年の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)でした。
毎年10月18.19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が温泉街を練り歩き、威勢のいい掛け声が温泉中に響き渡ります。境内にはシメ縄が巻かれている「夫婦杉」の大木や、静岡県指定天然記念物の「一位樫」などがそびえ立っています。一位樫は九州地方に生息する木で伊豆地方で見られるのは珍しいことです。また、巨木の根元部分がくっついている樹齢800年の「子宝の杉」は、樹木の結合部分をまたぐことで子宝に恵まれるそうです。
他にも源範頼が幽閉され、住んでいたという信功院跡があります。範頼は武芸の達人としても有名で、その最期は北条氏の手勢に入浴中の不意をつかれその生涯を閉じました。境内には院の表記と庚申塔がその惨劇を物語るかのように静かに建っています。
温泉街を流れる桂川のほとりに続く、竹で囲まれた遊歩道。竹林の中に自然石を敷き、「伊豆の小京都」と称される修善寺にふさわしく、川面を渡ってきた風が竹の笹を揺らし、とても爽やかな場所です。
小径の脇には、軽食を楽しむ場所や土産店なども多く立ち並び、少し広くなっている場所には大きい円形のベンチがあります。そこでは観光客が横になって竹林からの木漏れ日にあたる姿も見られ開放感があります。1994年から3年間を費やし、新たに整備された散策道は以前よりも温泉街の景観美を高め、温泉情緒漂う場所になりました。
また、桂川沿いに佇む新井旅館は、国の登録有形文化財に登録されています。修善寺の四季を一望できるその部屋は文豪、芥川龍之介が好んだ宿としても有名です。喧騒のない静寂した空間のなかで、文豪たちが観た景色に想いを重ねるのもひとつの楽しみかもしれません。
修善寺温泉は中心地である修禅寺界隈に観光名所が集中していますが、中心地から外れた場所でも見所はたくさんあります。
たとえば、交通の基点となる修善寺駅周辺。駅から温泉街へと渡る狩野川の赤い鉄橋(大仁橋)付近は、鮎の友釣りの発祥の地として知られています。橋の迫力もさることながら、川沿いに下りてみると、雄大な天城山が目の前に迫ってきます。
名所・旧跡だけでなく自然も修善寺温泉の大きな魅力ですので、全てを堪能する為には、一度訪れただけでは難しそうです。
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