写真:bow
地図を見るいま、京都でも注目を集めている史跡の一つに「御土居」があります。NHKの人気番組「ブラタモリ」で登場して以来、再び大きく脚光を浴び、訪れる人が急増しているのです。「御土居」とは、かつて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、長らく続いた戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一つとして築いた大きな土塁。
鴨川の氾濫から京都市街を守る役割と、外敵の来襲に備える防塁の役割もある「御土居」はかつて京都市街をぐるりと囲んでいました。その総延長はなんと22km以上にも及ぶまさに大城壁だったのです!
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地図を見るしかし「御土居」の多くは江戸時代以降、次々と取り壊されてしまい現存するものはごくわずかとなっています。現在はそのうち9か所が史跡として指定、その遥か昔の京都の痕跡を求めて御土居めぐりをする人が絶えないのです。
御土居を断面図で見てみると基礎部分の幅が約20m、頂上部の幅が約5m、高さは約5mの巨大な台形状となっています。土塁の外側にはお堀があり、その幅は約10m、深さは最大約4mとされているのです。とにかくそのスケールたるや、ひとこと「デカイ!」
京都市北区平野鳥居前町の御土居はその規模を知ることのできる貴重な史跡の一つ。隣接する家屋の高さと肩を並べる程の巨大なものです。こんなものが京都をぐるりと囲っていたなどとにわかに信じることができません。
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地図を見る「御土居」という言葉を京都で最近ひんぱんに聞くようになった一つのきっかけは北野天満宮の存在です。実は北野天満宮の境内にも「御土居」の遺構が残っているのです。
ちょうどその「御土居」沿いが非常に綺麗な紅葉が見れるということで、近年「史跡御土居のもみじ苑」という形で公開されるようになったのです。また、冬の梅苑公開時にもあわせて「御土居」が公開されていますので、知らず知らずに「御土居」に接している方も多いのかもしれません。
そんな北野天満宮では画像でご覧頂ければ分かるように川沿いにそびえ立つ巨大な壁のような「御土居」が残っていて、そのスケールの大きさを今に伝えています。
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地図を見るほぼ当時のまま良好な状態で保存されているのは京都市北区大宮御土居町、通称「玄琢下の御土居」や鷹峯の御土居の史跡公園となっている御土居です。
自然の川(谷)を利用した北野天満宮の御土居などと違い、「玄琢下の御土居」はお堀を掘るところから作られています。つまり大きく地形を変えたような工事が行われた現場であり、その場に立てば当時の苦労がしのばれます。
このような巨大な構造物が京都市内一周をわずか半年にも満たない内に完成したといわれていて、おびただしい数の人員が工事にかかわったとされているのです。それ程の大工事をやり遂げた秀吉は、やはり天下人たる力の持ち主だったのでしょう。
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地図を見る江戸時代に入ると、鴨川に新たな堤防ができ、市街化が進むにつれ土塁は取り壊されて行きました。やがて近代には郊外への宅地化が進んで、第二次大戦後は土塁の大部分が消失。京都市北西部を中心にわずかに残るだけとなりました。
しかし、今は跡形もなくなってしまった御土居の跡地に、今も「御土居町」「旧御土居町」「土居町」など、御土居があったことの証明でもある地名が京都市内には多数残っています。それほど御土居というものが京都の町に根差した存在であった証なのでしょう。
豊臣秀吉が京都に残したものは数知れず。寺、神社はさることながら、寺院を強制的に集めた寺町や、町割を平安時代から続いていた正方形割から短冊形の町割りに変えるなど、現在も綿々と受け継がれているものの中に秀吉が行った政策は数知れず。実は京都で見ている当たり前のモノの中には秀吉が関わっているものが多かったりします。
御土居もまた、その一つとして今に伝えられているもの。京都を良く知る人にとっても、まだ京都にこんなモノがあったのか!と思わせてくれる「御土居」を訪ねて京都に足を運んでみませんか?
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この記事を書いたナビゲーター
bow
京都生まれ、京都育ちの生粋の京都人です。仕事で全国を飛び回り、京都の良さを再認識したため、京都の観光に携わる仕事をしています。全国を旅した経験と、観光業界に生きる人間としての視点、更には京都人ならでは…
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