古代天皇の謎に迫る!?大阪「誉田八幡宮」の祭神は応神天皇

古代天皇の謎に迫る!?大阪「誉田八幡宮」の祭神は応神天皇

更新日:2024/01/09 11:30

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
大阪府羽曳野市の「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」は、古来、応神天皇の陵墓とされている巨大古墳で、その規模は全国第2位。その大きさに圧倒される人も多いことでしょう。そんな誉田御廟山古墳と深いかかわりを持つ神社が、その南側に鎮座しています。「誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)」です。今回は応神天皇とのかかわりを中心として、誉田八幡宮がたたえる豊かな歴史をご紹介しましょう。

応神天皇ゆかりの誉田八幡宮

応神天皇ゆかりの誉田八幡宮

写真:乾口 達司

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誉田御廟山古墳に隣接する地に鎮座する誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社。中国の史書『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の一人とも目される「応神天皇(おうじんてんのう)」の諱(いみな)が「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」であることからも、誉田八幡宮が応神天皇と深いかかわりを有していることがうかがえます。

八幡神が源氏の氏神とされているため、古来、誉田八幡宮は武家の崇敬を集めてきました。建久年間、源頼朝によって寄進されたと伝わる国宝の塵地螺鈿金銅装神輿や、1433年(永享5)、室町幕府第6代将軍・足利義教によって奉納された『誉田宗廟縁起』などが社宝として残されているのは、その証です。

豊臣家・徳川家によって再建された拝殿

豊臣家・徳川家によって再建された拝殿

写真:乾口 達司

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写真は本殿前に建てられている拝殿。入母屋造・本瓦葺で、中央間口が11間もある横長の建造物です。現在の拝殿は、1606年(慶長11)、豊臣秀頼の命によって建てられたもの。建設途中、大坂の陣で豊臣家が滅亡したため、徳川家が豊臣家になり代わって工事を続行しました。

拝殿の特徴としては、天井に板が張られていないことが挙げられます。そのため、豪壮な天井の木組を直接見ることができます。社務所に声をかけると、気軽に見せていただけるため、参拝の折にぜひご覧ください。

豊臣家・徳川家によって再建された拝殿

写真:乾口 達司

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外側を観察すると、開閉に際して、木戸を水平に跳ねあげる「蔀戸(しとみど)」がしつらえられていることがわかります。

豊臣家・徳川家によって再建された拝殿

写真:乾口 達司

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豪華絢爛たる桃山時代の意匠が随所に見られ、建築部材の彫刻類も派手好みですね。

応神天皇に対する祭祀の名残り!?放生橋

応神天皇に対する祭祀の名残り!?放生橋

写真:乾口 達司

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境内を奥に進むと、写真の「放生橋」に突き当たります。長さ5.8メートル、高さ4.8メートルの石橋で、3本の橋脚の上に橋桁をわたし、花崗岩製の橋板を並べています。

ご覧のように、大きく反った構造に特徴があります。

応神天皇に対する祭祀の名残り!?放生橋

写真:乾口 達司

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欄干部分も石造りで、それを支える束石にも装飾がほどこされています。放生橋が築かれたのは、江戸時代前期。その後、何度か改修されています。

応神天皇に対する祭祀の名残り!?放生橋

写真:乾口 達司

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留意したいのは、9月15日の秋期大祭の折、応神天皇の神霊が乗るとされる神輿が放生橋をわたり、写真の奥に見える誉田御廟山古墳へ渡御する神事がとりおこなわれてきたこと。現在は隣りに新たに築かれた平橋をわたりますが、ここからは誉田八幡宮と誉田御廟山古墳との強いつながりがうかがえます。

誉田八幡宮の創建は、6世紀、欽明天皇の時代と伝えられています。その創建当初から誉田御廟山古墳に対する祭祀を目的として建てられたと考えられており、数多くの古墳が点在する当地にあって、誉田御廟山古墳が特別な価値を持つ古墳とみなされてきたことがうかがえます。その歴史的経緯は、被葬者の特定がきわめて困難な多くの天皇陵にあって、応神天皇に比定される人物が誉田御廟山古墳に埋葬されているとする有力な根拠の一つともなっています。

朝鮮半島から渡来?謎の摂社・当宗神社

朝鮮半島から渡来?謎の摂社・当宗神社

写真:乾口 達司

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「当宗神社(まさむねじんじゃ)」と呼ばれる摂社は、創建当初、「当宗忌寸(まさむねのいみき)」の祖神である「山陽公」をまつっていました。

山陽公は、古代、朝鮮半島からの渡来神であったとのことですが、母親である神功皇后が朝鮮半島に出陣していた折、お腹のなかにあったこと、帰国後、九州で生まれていること、出生後は母親とともに畿内へと侵攻し、畿内の抵抗勢力を駆逐したことなど、『古事記』や『日本書紀』に記された数々のエピソードを踏まえると、応神天皇自身が朝鮮半島から渡来し、先の王権に成り代わって新たな王権を打ち立てた始祖王であったということまで連想できます。

その意味で、当宗神社は応神天皇と大陸との強い結びつきを「山陽公」によって象徴した社であるといえるかも知れませんね。応神天皇渡来説、考察してみてはいかがでしょうか。

朝鮮半島から渡来?謎の摂社・当宗神社

写真:乾口 達司

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こちらの石燈籠は朝鮮国王から奉納されたもの。ここでもやはり誉田八幡宮と朝鮮半島とのつながりがしのばれます。

朝鮮半島から渡来?謎の摂社・当宗神社

写真:乾口 達司

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応神天皇との結びつきが認められる誉田八幡宮は、中世になると、地政学上の重要性からしばしば諸勢力が激突する舞台ともなりました。境内にはそのことを示した写真の石碑も建てられていますが、代表的な合戦としては、正平年間に繰り広げられた北朝方の細川氏と南朝方の楠木正行、享徳年間の畠山政長と畠山義就による合戦などが挙げられます。

こちらも誉田八幡宮のもう一つの歴史といえるでしょう。

お産を間近に控えた方は必見!境内にある安産社

お産を間近に控えた方は必見!境内にある安産社

写真:乾口 達司

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写真は境内にある安産社。社の脇には槐(えんじゅ)の大木が生えています。なぜ、槐であるかというと、神功皇后が応神天皇を出産する際、産殿の柱を槐で造らせたという故事にちなんでいます。

当社の槐は、後世、後冷泉天皇の皇后の出産時にも霊験があったとされているため、出産を間近に控えた方は当社に安産をお祈りしてみてはいかがでしょうか。

誉田八幡宮と応神天皇とのかかわり、あるいはその豊かな歴史性をおわかりいただけたでしょうか。周辺地域は古市古墳群と呼ばれる古墳のメッカでもあり、古代史好きにはぜひ訪れていただきたいところ。誉田八幡宮に参拝し、応神天皇を中心とした古代史に思いをめぐらせてみてください。

誉田八幡宮の基本情報

住所:大阪府羽曳野市誉田3-2-8
電話番号:072-956-0635
アクセス:近鉄南大阪線「古市駅」より徒歩10分

2024年1月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2023/12/02 訪問

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