北九州市「森鴎外旧居」は小さな文学館!森鴎外の素顔に迫る

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北九州市「森鴎外旧居」は小さな文学館!森鴎外の素顔に迫る

北九州市「森鴎外旧居」は小さな文学館!森鴎外の素顔に迫る

更新日:2017/11/11 19:29

KISHI Satoruのプロフィール写真 KISHI Satoru 岬の狩人、伝記研究者、旅するパンクス

医者の家系に生まれ学問に優れ神童と呼ばれた幼少期。後に軍医として官吏の道を歩み、また同時に翻訳、小説、随筆、歴史小説と文豪としても大きな足跡を残していった森鴎外。福岡県北九州市の小倉の町へ、37歳の時に軍医として赴任します。約3年間の滞在中の前半を過ごした場所には美しい庭を持つ、まるで小さな文学館のような「森鴎外旧居」。森鴎外の生涯と共に福岡県北九州市にある「森鴎外旧居」を御紹介致します。

「鍛冶町」と「京町」の二箇所の住居と文豪・森鴎外

「鍛冶町」と「京町」の二箇所の住居と文豪・森鴎外

写真:KISHI Satoru

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JR小倉駅南口から出て、北九州モノレールの平和通駅まで直進。左手にある、その名の通り“オーガイストリート”と呼ばれる路地へ進むと美しく整った生け垣に囲まれた一角が右手に現れます。福岡県北九州市小倉北区鍛冶町にある「森鴎外旧居」です。

1897年(明治30年)頃に建てられた木造瓦葺き平屋建の住居。
文豪・森鴎外(1862年〜1922年)が1899年(明治32年)6月24日〜1900年(明治33年)12月24日まで住んでいた場所です。小倉駅から徒歩約10分というアクセス環境で、入館料・無料といった観光に最適なスポットです。

また小倉駅南口には、「森鴎外京町住居跡碑」もあります。小倉滞在時の後半、1900年(明治33年)12月24日〜1902年(明治35年)3月26日まで森鴎外が京町の住居に住んでいた事を記念して建立されたものです。鍛冶町にある旧居と共に併せて巡ってみて下さい。

※ 正確な表記は「森鷗外」と中央のカモメの字が<「區」+「鳥」>となりますが閲覧性保持のため新字体「鴎」を利用した「森鴎外」としています。

軍医・森林太郎と文豪・森鴎外

軍医・森林太郎と文豪・森鴎外

写真:KISHI Satoru

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森鴎外は1862年(文久2年)、島根県鹿足(かのあし)郡津和野町に代々医者である家系に生まれます。本名は森林太郎。幼少から神童と呼ばれ、5歳で漢学、8歳で蘭学、10歳でドイツ語を学びます。11歳でドイツ人講師によりドイツ語で授業が行われる東京医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学し、14歳の時に政府が費用を支出する官費生となります。

当時、東京医学校予科の入学規定の年齢は14歳であり、3歳足りないため1860年(万延元年)生まれとして(それでも規定より1歳足らずに)願書を提出し以後、公にはこの年令に従ったとの“神童”の名に相応しい逸話が残っています。
大学卒業後に陸軍軍医副となり、衛生学研究のためにドイツへ留学。1888年(明治21年)に日本に帰国してからは軍医、並びに翻訳や執筆と文学者としても活躍していきます。

こちらの森鴎外の胸像は文化勲章受章の彫刻家・中村晋也(1926年〜現在)によって制作されたもの。威厳に満ち溢れた森鴎外を強く感じられます。

「森鴎外旧居」の内部は小さな森鴎外文学館

「森鴎外旧居」の内部は小さな森鴎外文学館

写真:KISHI Satoru

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1899年(明治32年)に当時37歳の森鴎外は第十二師団軍医部長として福岡県北九州市小倉に着任します。最初に鍛冶町に住み、後に京町に転居、第一師団軍医部長として東京へ移るまでの約3年間を小倉の地で過ごします。
こちらの鍛冶町にある「森鴎外旧居」は復元工事を経てから1982年(昭和57年)に一般公開されました。

旧居内の“通り土間”は簡易的な展示室となっていて森家の家系図や森鴎外の年表が壁に飾られ、その他、森鴎外の著作、関連書なども並べてあります。音声ガイダンスもあるので、ボタンを押して聴いてみて下さい。

書棚や関連書籍が展示してある奥は“吊階段の間”。当時、二階の屋根裏に上がる際は滑車で上下させて利用していたものです。

小倉滞在中の随筆「我をして九州の富人たらしめば」・「鴎外漁史とは誰ぞ」

小倉滞在中の随筆「我をして九州の富人たらしめば」・「鴎外漁史とは誰ぞ」

写真:KISHI Satoru

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森鴎外の連載・大河小説「渋江抽斎」が掲載されている“大阪毎日新聞”の実物や「我をして九州の富人(ふうじん)たらしめば」、「鴎外漁史(ぎょし)とは誰(た)ぞ」が掲載された“福岡日日新聞”のコピーも展示されています。また北九州市周辺の鴎外文学碑、九州北部を中心とした史跡紹介もあり、森鴎外に因んだ広域の観光情報も得られます。

こちらは森鴎外の遺言書(複製)です。
“死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く”とその小説「妄想」の中の一節に書いた森鴎外。「森林太郎トシテ死セント欲ス」と軍医でもなく、文豪でもない唯一人の人間として人生を終えたいとの旨が書かれています。
1922年(大正11年)に亡くなると、東京の向島にある弘福寺に埋葬されますが後に三鷹の禅林寺に改葬されました。

表庭の「百日紅」、「夾竹桃」、「沙羅の木」

表庭の「百日紅」、「夾竹桃」、「沙羅の木」

写真:KISHI Satoru

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「森鴎外旧居」では座敷に上がって内部の見学が可能です。小倉に単身赴任した森鴎外は主に八畳の座敷と南側に続く四畳半の小座敷を使用していました。八畳の座敷から望む道路側の表庭には、百日紅(さるすべり)と夾竹桃(きょうちくとう)が当時のまま残されています。

小倉三部作と総称される「鶏」、「独身」、「二人の友」。その一つ「鶏」には“北向きの表庭は、百日紅の疎(まばら)な葉越に、日が一ぱいにさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いてゐる”と夏の庭の描写があります。また森鴎外が詠んだ詩歌に因んで「沙羅の木」も植えられています。

こちらの八畳の座敷には当時、掛け軸として「軍人勅諭」があったとされています。現在は発明家・矢頭良一(やず りょういち、1878年〜1908年)の死を悼んで遺族に贈った「天馬行空」と隷書体で書かれた掛け軸(複製)が掛かっています。落款として森鴎外の諱(いみな)である源高湛(みなもとのたかやす)と書き添えられています。実物は同地区である北九州市小倉北区「北九州市立文学館」にて所蔵してあります。

福岡県北九州市小倉「森鴎外旧居」のまとめ

小倉北区の鍛冶町にある「森鴎外旧居」の他に、小倉駅南口には「森鴎外京町住居跡碑」が建てられています。また小倉駅から西側の小倉城方面へと歩を進めると紫川に掛かる「鴎外橋」、「森鴎外文学碑」、森鴎外を始め北九州市にゆかりのある文学者が紹介されている「北九州市立文学館」と関連した観光スポットが周辺に豊富にあります。
下部関連MEMOには「鴎外橋」と「森鴎外文学碑」の紹介記事へのリンクもありますので、宜しければそちらも御確認下さい。

軍医でもあり、文豪でもあった森鴎外が小倉の地で得たもの、そして残したものを探してみてはいかがでしょうか。福岡県北九州市にある「森鴎外旧居」を訪れて、森鴎外の足跡を辿ってみて下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/04/08 訪問

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