こんな所にも!?奈良市「西大寺」のありし日の姿を求めて

こんな所にも!?奈良市「西大寺」のありし日の姿を求めて

更新日:2024/05/09 13:52

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
奈良を代表する古寺として、世界遺産・東大寺を連想する方も多いでしょう。その名のとおり、東大寺はかつて平城京の東に位置する大寺でした。では、それと対になる西の寺はあったのでしょうか。実は、その名のとおり「西大寺」という名のお寺が現在も残されています。知名度では東大寺に劣りますが、それだけに奈良観光において新たな発見が期待できるお寺です。かつての西大寺がいかに栄えていたかを、今回はご紹介しましょう。

創建当時をいまに伝える東塔跡

創建当時をいまに伝える東塔跡

写真:乾口 達司

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大和西大寺駅から徒歩数分。現在の「西大寺(さいだいじ)」は、住宅地のなかにひっそりたたずんでいます。

創建は764年(天平宝字8)。恵美押勝の乱に際して、後の称徳天皇(孝謙上皇)が乱の平定を祈願して、金銅四天王の造像と寺院の建立を発願したことにはじまります。当初は広大な境内に数多くの堂塔が建ち並んでいましたが、平安時代になると、たびたび火災に見舞われます。現存する建物はすべて江戸時代に再建されたもので、その寺域も創建当初からは大幅に縮小しています。

創建当時をいまに伝える東塔跡

写真:乾口 達司

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創建当時の隆盛をいまに伝える遺構として、本堂前の東塔跡があります。当初は八角七重塔として計画されましたが、後に四角五重塔に変更・縮小されました。基壇の周囲は八角形の芝生となっており、八角七重塔として計画された当初の基壇の位置を示しています。

<西大寺の基本情報>
住所:奈良市西大寺芝町1-5
電話番号:0742-45-4700
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約3分

中興の祖・叡尊の石造五輪塔

中興の祖・叡尊の石造五輪塔

写真:乾口 達司

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鎌倉時代になると、叡尊(興正菩薩)が、寺の復興に着手。西大寺の寺領は拡大しました。

西大寺中興の祖というべき叡尊の墓所は、西大寺の西方、奥の院とも称される法界躰性院(体性院)に残されています。ご覧のとおり、巨大な五輪塔で、台座の下端から空輪の頂きまでの高さは約3.7メートルもあります。

中興の祖・叡尊の石造五輪塔

写真:乾口 達司

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境内西側の墓地には「骨堂(こつんどう)」と呼ばれる建物もあります。

骨堂は鎌倉時代末期から室町時代にかけて建てられたと考えられる中世の納骨堂で、五輪塔の形をした板塔婆が外壁に打ちつけられています。現在、納骨の習慣はありませんが、塔婆を打ちつける習慣だけは残っており、真新しい塔婆も見られます。

<法界躰性院の基本情報>
住所:奈良市西大寺野神町1-6-10
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約10分

鋳物師池跡と十五所神社

鋳物師池跡と十五所神社

写真:乾口 達司

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法界躰性院の南方にある西大寺野神緑地は、1380年(弘安3)に制作された『西大寺敷地図』などに「奉鋳四天池」と記されている「鋳物師池(いものしいけ)」の跡地。西大寺の創建時、金銅四天王像が鋳造されたところであるといわれています。

<西大寺野神緑地の基本情報>
住所:奈良市西大寺野神町1-5-5
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約10分

鋳物師池跡と十五所神社

写真:乾口 達司

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「十五所神社(じゅうごしょじんじゃ)」は西大寺の北西に位置する神社。鎌倉時代以降、西大寺の復興がはかられ、寺域は拡大。しかし、それにより、西大寺の北方に位置する秋篠寺とのあいだで寺域をめぐって相論(紛争)が勃発しました。

1316年(正和5)に制作された『西大寺与秋篠寺堺相論絵図』によると、同年12月5日、西大寺に属する十五所神社に対して秋篠寺の実力行使があり、社殿などが破却されています。

<十五所神社の基本情報>
住所:奈良市西大寺北町1-6
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約5分

「本願天皇御山荘跡」と謎の「高塚」

「本願天皇御山荘跡」と謎の「高塚」

写真:乾口 達司

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伏見中学校の北方、住宅地にかこまれるように、こんもりとした森と沼地が残されています。

森や沼地は中世の絵図などで「本願天皇御山荘跡」と記されている区画で、西大寺を創建した称徳天皇の山荘があったところと伝えられています。実際、発掘調査の結果、付近からは奈良時代後期に造営された宮殿風の遺構も発見されています。

<本願天皇御山荘跡の基本情報>
住所:奈良市西大寺宝ヶ池
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約10分

「本願天皇御山荘跡」と謎の「高塚」

写真:乾口 達司

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西大寺の西方には「高塚」と呼ばれる区域が存在します。写真の丘陵はその一角にあり、頂上部には、鷹塚地蔵尊と呼ばれる石仏と社殿が置かれています。

780年(宝亀11)に作成された『西大寺資財流記帳』には創建当初の西大寺の寺域を示した記述がありますが、「高塚」はそのなかの「山陵八町」に相当する区画にあり、「山陵」や「高塚」といった名称から、このあたりに称徳天皇の真の陵墓があったのではないかという説もあります。

宮内庁が管理する「称徳天皇陵(孝謙天皇陵)」は西大寺の北東にありますが、古墳時代中期に築かれた前方後円墳であり、称徳天皇の実在した時代よりも300年以上前のもの。したがって、その比定には疑問符がつきます。

「高塚」は果たして称徳天皇の真の埋葬地なのでしょうか。実際に「高塚」を訪れ、推理してみてください。

「本願天皇御山荘跡」と謎の「高塚」

写真:乾口 達司

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鷹塚地蔵尊からの眺望はご覧のとおり。地元民にしか知られていないビュースポットですよ。

<鷹塚地蔵尊(高塚)の基本情報>
住所:奈良市西大寺高塚町
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約15分

現在も残る「北辺坊」

現在も残る「北辺坊」

写真:乾口 達司

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付近では、奈良時代の地割(条里)をいまでも見ることができます。奈良県橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』(奈良県教育委員会/1981年)によると、奥に見える民家二軒分の幅で手前(北方向)にのびている地割は、平城京の「右京北辺四坊」に接する「西三方大路」の名残りです。

現在も残る「北辺坊」

写真:乾口 達司

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こちらは東西に走っていた「一条北大路」の名残り。

このあたりは平城京の北西部分に当たり、学術的には「北辺坊」と呼ばれているところ。井上和人「西大寺の造営と平城京右京北辺坊」(東京大学文学部・奈良国立博物館編『西大寺古絵図は語る』奈良国立博物館刊/2002年)によると「北辺坊は、奈良時代後半期に右京条坊域内に伽藍中枢部を置く西大寺を造営する際に、その広大な寺地を確保するために、京域を北側に拡大して設定された条坊区画であったと考えられる」とのことです。

地割からもかつての西大寺の広がりがわかるため、その痕跡もめぐりましょう。

<北辺坊の基本情報>
住所:奈良市西大寺北町および西大寺野神町
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩約10分

西大寺のありし日の姿を探ろう!

かつての西大寺がいかに広大な寺域を有する大寺院であったか、おわかりいただけたでしょうか。西大寺のかつての寺域の広さを体感するには、実際にご自身の足で歩いてみなければわかりません。西大寺を訪れ、往時をしのんでください。

2024年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2023/10/14 訪問

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