写真:乾口 達司
地図を見るそんな高松塚古墳が一躍有名になったのは、埋葬施設である石室(横口式石槨)の内部から極彩色の壁画が発見されたことにはじまります。発見は1970年の秋頃のこと。村人が農作物を貯蔵するために穴を掘ったところ、穴から石室を構成する切石が見つかりました。これをきっかけにして、1972年から本格的な発掘調査がはじまり、極彩色の壁画の発見にいたりました。
壁画をカビなどから守るため、当初は大掛かりな設備で石室内の空調管理がなされていましたが、それでも劣化を食い止められず、結局、石室を一度解体し、内部の壁画を取り出して保存・修復する道が選ばれました。それにともない、古墳本体の整備もはかられ、2009年には、写真のように、築造当初の姿に再現されて現在にいたっています。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は高松塚古墳を側面から撮影したものですが、ご覧のように、その形状は2段式の円墳です。下段の直径は23メートル、上段の直径は約18メートル、高さは約5メートルで、大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)などのような巨大な前方後円墳を想像していた方には意外なはず。
実は畿内では、6世紀に入ると、大山古墳のような巨大な前方後円墳は築かれなくなり、その規模も縮小化の一途をたどります。その代わり、高松塚古墳やキトラ古墳のように、死者を安置する石室内に華麗な壁画を描くなどの意匠を凝らした古墳が現れます。高松塚古墳の築造時期も藤原京に都が置かれていた7世末から8世紀初頭と考えられており、この時期に築かれた古墳は学問的には「終末期古墳」と呼ばれています。
写真:乾口 達司
地図を見る石室内の壁画の剥ぎ取り作業にともなっておこなわれた近年の発掘調査により、古墳の北側から東南東にかけて周溝が設けられていることも判明しています。その規模は幅約2メートル、深さ約25センチメートルといった小規模なものですが、残存状態が悪かったために詳細ははっきりせず、築造当初の規模は不明のまま。ご覧のように、現在、周溝の部分はアスファルトによって表されています。
写真:乾口 達司
地図を見る写真に写っている小さな石組みは暗渠の遺構を復元したもの。石室内にたまった水を外へ出すためのものと考えられますが、こんな工夫まで凝らされていたとは、驚きですね。
写真:乾口 達司
地図を見る高松塚古墳の西側には「高松塚壁画館」と呼ばれる施設も設けられています。館内には発見当時の壁画や石室内の様子が再現されており、高松塚古墳の実像を詳しく知ることが出来ます。剥ぎ取られた壁画は、現在、近くの施設で修復されている最中であり、その実物を目にすることが出来ません。それだけに、特に壁画の全貌を学ぶのには欠かすことの出来ない施設であるといえます。高松塚古墳を訪れたら、あわせて見学しましょう。
意外と知らない高松塚古墳の実像の一端、ご理解いただけたでしょうか。極彩色の壁画に彩られた石室内に眠っていた被葬者の特定も出来ないでいない現在、ご自身の足で高松塚古墳を訪れ、被葬者の謎に迫ってみたりしながら、古代飛鳥のロマンにひたってみてはいかがでしょうか。
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(2023/12/6更新)
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