神田明神VS成田山!全国の佐藤さん、初詣は平将門にご用心

神田明神VS成田山!全国の佐藤さん、初詣は平将門にご用心

更新日:2015/12/07 12:43

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
東京都千代田区の『神田明神』と、千葉県成田市の『成田山新勝寺』はいずれも全国的に知られた社寺です。特に開運を祈願するめでたい初詣では、どちらか、或いは両方参拝される方も多いと思いますが、全国の佐藤さんを始め、苗字に“藤”のつく方はちょっとご用心!
この神田明神と成田山には知られざる因縁があり、永年、対立関係にあるのをご存知でしょうか。
出かける前に、まずはこの因縁を知ってからでも遅くないでしょう。

因縁のきっかけは平将門

因縁のきっかけは平将門

写真:Naoyuki 金井

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世紀を超えた因縁の主人公が、日本三大怨霊の一人『平将門』その人です。
ことの発端は、平安時代中期に平将門が関八州(現在の関東地方)を征服して自ら“新皇”と名乗った《平将門の乱》と呼ばれた事件です。

新皇と名乗った将門に激怒したのが朝廷で、これは朝廷に反旗を翻した逆賊であるとして、俵藤太を追討軍として差し向けました。
しかし、東国の将門軍を簡単には制圧できなかったことから、朝廷はさらなる追討として戦ではなく神霊的な手法を用いるように京都の僧寛明に命じたのです。寛明は朝敵調伏の為、空海作の不動明王と宝剣を持ち東国へ向かいます。

写真は、その将門を供養している東京大手町の首塚ですが、これが1000年以上にわたる神田明神VS成田山の対立のきっかけなのです。

因縁の始まりが成田山建立

因縁の始まりが成田山建立

写真:Naoyuki 金井

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平将門の制圧に手こずっていた俵藤太を支援するかのように、僧寛明は、940年海路上総国に上陸し、下総国公津ヶ原に不動明王を安置して護摩を焚き21日間の儀式を行いました。

このころ戦場では、北風が強く風上に陣取った将門には有利な状況でしたが、護摩祈祷の満願の日、護摩の火の中に将門の姿が現れると、戦場の風向きが突如逆転したのです。風下になった将門は一気に不利な状況となり、流れ飛んだ1本の矢が将門に命中しあえなく討死しました。

調伏を達成した僧寛明は、不動明王を引き上げようとするのですが像が動かなかったため、この地に不動堂を建立して祀りました。
これが現在の成田山新勝寺の開山起源なのです。

因縁を創ったのが神田明神

因縁を創ったのが神田明神

写真:Naoyuki 金井

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京都市の“京都神田明神”にある小さな祠には、“平将門の首を晒した所”と云う由緒書があります。つまり討死した将門の首は京都に晒し首となり、何か月も腐らず夜な夜な「もう一度戦おう」と叫び続けたと云われた場所なのです。

また一説にこの晒し首は、五体を探すために関東目指して飛び去り、途中で力尽きて地上に落下したと云われています。これが関東各地の首塚伝承が出来上がった理由なのですが、その中でも最も有名なのが千代田区大手町の首塚で、その後江戸で流行した疫病が将門の祟りであると云われたほどの怨霊でした。
この将門の怨霊を鎮めるため供養を行い、1309年に将門を祀ったのが、当時首塚近くにあった神田明神なのです。

1000年を超える因縁

1000年を超える因縁

写真:Naoyuki 金井

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江戸三大祭りの一つである神田祭を行う神社として知られ、銭形平次の舞台としても有名な神田明神に祀られた将門神は、朝廷の逆賊であっても江戸では関東のヒーローとして崇敬されていました。しかし明治天皇が神田明神に行幸する際には、朝廷の逆臣が祀られているのはあるまじきこととして祭神から外されたのでした。

昭和になるとNHKの大河ドラマなどで放映され、将門の人気も上がり、将門神は昭和59年にめでたく本社に復帰となったのです。
これにより1000年以上たった現在でも将門と家来の子孫や神田明神の氏子たちは、成田山に詣でると将門の加護を受けられないという伝承で、参詣しない人が多くなったのです。

勿論、NHK大河の当時の出演者も成田山には参詣しなかったほどで、逆に成田山に参詣すると災いが起きるとも云われています。

神田明神と成田山は表裏一体

神田明神と成田山は表裏一体

写真:Naoyuki 金井

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明治神宮に次ぐ数多くの初詣客を集める全国的にも著名な寺院で、歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して“成田屋”の屋号を名乗っている事でも知られる成田山。しかし将門関係の人にとっては、まさしく敵とも云える存在です。成田山においても由緒として正式に将門調伏の伝承を残しているので無関係ではいられない、いわば宿敵とも云える関係です。

これは表裏一体の関係で、成田山を信仰する人は神田明神に参詣すると将門の怨霊で災いが起きると云われているのです。しかし、この宿敵関係は単に成田山を信仰する人だけにとどまらず、先祖代々の血縁に関係するから厄介です。

それは将門追討に向かった俵藤太が後に藤原秀郷と名乗り、この藤原の子孫が苗字に“藤”の字が入ることがその理由で、特に藤原の直系である“佐藤”は、もっとも将門の怨霊を受けると実しやかに囁かれているのです。

最後に。。。

諸説あり、明確な根拠が有るわけではありませんが、1000年以上にわたる宿敵の関係は存在すると信じている方がいらっしゃるのも事実で、それを是非する必要はありません。

気になさらなければ、それはそれで結構なのですが、佐藤さんを始め苗字に“藤”がつく方で、「神田明神に行っても何となくご利益が無いなあ」と思っている方は、一度、成田山に行った方が良いかも知れませんね。何といっても日本で一、二位を争う人口の多い苗字ですから。
「信じるか、信じないかは、あなた次第」ということです。

掲載内容は執筆時点のものです。

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