写真:万葉 りえ
地図を見る北部九州は地形から中国や朝鮮半島とのつながりが古い地で、大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送る以前から大陸と交流していた歴史を持っています。
日本書紀の推古17(609)年には「筑紫太宰(つくしだざい)」という役職名も記されており、博多湾岸に那津宮家という外交の拠点を設置して、遣隋使を送りだしたり半島からの使いに饗応した等の記録が残っています。
しかし、その拠点を内陸である現在の太宰府へと移さなくてはならない歴史の転換がきてしまいます。それが白村江の戦い(663年)での大敗でした。
日本は朝鮮半島にあった国の一つである百済(くだら)と友好関係を持っていました。その百済が唐と新羅(しらぎ)に攻められてしまいます。
日本は百済を助けるために派兵しますが、力の差は歴然でした。唐は比べられないほどの大国です。反対に唐や新羅から侵攻される恐れがでて、当時の日本国内では一気に緊張が走ったことでしょう。664年には東国の農民を防人(さきもり)として集め、水城(みずき)を築きます。
水城というのは、博多湾から太宰府へぬける最も狭い場所に、敵の侵入を抑えるために築いた巨大な土塁。写真では遠くに見えている山との間にかけて、約1.2キロを高さが9mもある土塁でつなぎました。さらに、博多側には幅60m深さ4mもある外濠に加え、太宰府側にも内濠が設けられます。水の流れも考慮され、技術の粋を集めた日本初の国家プロジェクトでした。
この大きな歴史のうねりの中で行われた巨大事業は、日本遺産から外すことはできません。
現在も残っている水城を見に行くことができるし、写真の左端に写る太宰府展示館で水城についての資料を見ることもできます。水城がどれほどの大事業であるかを知れば、困難な工事を成し遂げた当時の人々の気持ちを感じることができるでしょう。
写真:万葉 りえ
地図を見る水城の工事の翌年には、近くの山上に、さらに防衛のために大野城や基肄(きい)城が築かれました。築城にあたっては兵法に詳しい百済の貴族がかかわったことが日本書紀に残されているので、水城についても百済の技術が導入された可能性が大きいといえるでしょう。
大宰府では、百済の宮都を模して建物が作られていました。それだけでも最先端の技術だったのですが、その後さらに大きく国際化していきます。
平城京が唐の都・長安を模して造られたのは有名ですね。あまり知られていませんが、大宰府も同じく、遣唐使・粟田真人(あわたのまひと)が持ち帰った知識と技術で造られた、平城京と同じく碁盤目の街区を設けた本格的な国際標準の都だったのです。
北の中央には、日本の外交と防衛の拠点であり大宰府の中枢である「大宰府政庁」。その周辺には実務をする役所が集まっており、調査で100棟もの建物跡が確認されています。
大宰府政庁跡だけでも写真のような広さです。前面には朱雀大路が通り、人々の住まいだけでなく、教育機関や寺院、そして迎賓館など揃っており、いかにこの地が重要であったかがわかります。
ここから日本が形作られていった。日本遺産にふさわしい都市機構だったのです。
写真:万葉 りえ
地図を見る柿本人麻呂は筑紫を訪れた際にこんな歌を残しました
「大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門(しまと)を見れば 神代(かみよ)し思ほゆ」
大宰府を「天皇の遠の朝廷(とおのみかど)」と詠んだのもうなずけますね。
この歌は万葉集に収められているのですが、万葉集の約4500首のうち約320首が筑紫で詠まれており、「筑紫歌壇」という言葉があるほど著名なうたが多く含まれています。
特に有名なのは太宰帥(だざいのそち)として赴任していた大伴旅人(おおとものたびと)邸で開かれた「梅花宴」で詠われた32首で、山上憶良など万葉歌人としてよく知られた人々の名前が並びます。偶然とはいえ、現代の教科書に載るような歌人がそろってこの大宰府に役人として赴いていたのです。
梅の花も、じつは唐からもたらされたものの一つ。その最先端の梅の花さえ自邸の庭で楽しんでいたというところからも、大宰府の文化の高さがよくわかります。
菅原道真と梅とのつながりは有名ですが、その故事よりも200年近くも前から大宰府には梅が馥郁と香っていたのです。
写真:万葉 りえ
地図を見る芸術だけでなく生活のあらゆる場面で日本人は仏教とのつながりを持ってきたので、今となっては日本に仏教がないなど想像すらできないのではないでしょうか。日本人の精神性の面からも、太宰府は間違いなく日本遺産と言えるでしょう。
仏教が日本に入ってきたといわれているのは宣化3(538)年。その後も朝鮮半島から仏教の教義が日本にもたらされたし、留学僧として命をかけて海を渡って学んできた人々がたくさんいたことも忘れてはいけません。
しかし、仏教で重視される、肝心の正当な戒律や受戒の作法が伝えられていませんでした。
そこで朝廷は二人の僧を遣唐使として送り、日本へ来てくれる戒律の師を求めさせたのです。その求めに応じたのが鑑真和上。数々の苦難を超えてようやく日本へ着くことができたという話は、知っている方も多いことでしょう。
鑑真和上は日本に漂着後、大宰府にある観世音寺に滞在(753年)しており、正式な僧になるための受戒を日本で初めて行ったのもこの観世音寺だったのです。
観世音寺は、百済救済のために西国へ来て亡くなった母・斉明天皇(〜661年)の追善のために中大兄皇子(のちの天智天皇)が発願した寺です。完成したのは天平18(746)年。落慶法要には唐の玄宗皇帝から直接袈裟(けさ)を賜った玄ムが当たったという、国の威信をかけた官寺でした。
やがて、天下三戒壇の一つとされ、唐へ渡った空海もこの寺に長期滞在しています。
今は境内のあちこちに残る礎石が、かつて五重塔をはじめとして37宇もの建物を誇った大寺をしのばせます。そして、国宝になっている梵鐘をはじめとして伝わる文物が、どれほどこの地が国際色豊かだったかを教えてくれます。
これまでの日本、そして今の日本に、大宰府という地がいかに大きな影響をあたえているかを知っていただけましたでしょうか。
水城は、白村江の戦いの後だけでなく、鎌倉時代に入って元が攻めてきたとき(元寇)にも、日本の防衛ラインとして重要な役割を持たされました。
この西の都があればこそ…日本を考えるうえでこの地の歴史は外すことができない。まさに日本遺産にふさわしい地、太宰府。
600年という長きにわたって日本を形作ってきた西の都へ、ぜひ古代の風に吹かれにいらしてください。
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(2025/1/24更新)
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