写真:塚本 隆司
地図を見る元禄14年3月19日(1701年3月26日)午前4時頃、江戸城松之廊下で14日に起きた赤穂城主浅野内匠頭の殿中刃傷事件を知らせる急使を乗せて、2挺の早かごが播州赤穂の国境にある高取峠(たかとりとうげ)にさしかかる。
1挺に4人の担ぎ手と2人の引き手と押し手が1組となり、宿場ごとに乗り継ぎながら昼夜走り続けてきた。その距離は、155里(およそ600キロメートル)。江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さでたどりついたのだ。
兵庫県赤穂市と相生市の間にある高取峠は、昔から交通の難所。現在は国道250号線が通っているが、今でも急カーブの多い峠道である。その峠の頂上に、江戸からの早かごを再現した像が立つ。国元における赤穂事件始まりの地だ。像のとなりには、数台分の駐車スペースと休憩所があり、赤穂市街を見下ろすことができる。
<行き方>
近くにバス停がないため、車で行くかJR赤穂線「坂越駅」から徒歩30分、上り坂を歩くことになる。
写真:塚本 隆司
地図を見る江戸からの急使が赤穂城下へと入ったのは19日の早朝。城下の井戸で水を飲み一息ついた後、筆頭家老大石内蔵助の屋敷へと急いだ。二人の急使は体力の限界であったに違いない。早かごの乗り心地は、ひどいものだという。強烈な揺れと振動の連続で、並の体力では4日半も乗り続けることはまず無理なのだ。
「息継ぎ井戸」は、JR赤穂駅と赤穂城跡の間にある。近くには「からくり時計 義士あんどん」が立ち、午前9時から午後20時の毎正時に陣太鼓の音とともに扉が開き、忠臣蔵の物語がからくり人形によって上演される。
<行き方>
JR赤穂線「播州赤穂駅」から南へ徒歩7分。
写真:塚本 隆司
地図を見る浅野家筆頭家老大石内蔵助邸の門がたたかれたのは、19日の午前6時頃といわれている。急使として訪れたのは、早水藤左衛門と萱野三平の二人。江戸での変事発生の第一報が大石の元へと届けられた。
享保14年(1729)の大火でほとんどの建物が火災で失われた赤穂城下。大石邸長屋門は焼失をまぬがれ今に残る貴重な建築物だ。急使の二人が実際にたたいた門なのである。
間口は約26.8メートル、奥行約4.8メートルの大きな門だ。何度かの修繕・建て替えが行われている。当時の門が現在に残っているのは、なんとも感慨深い。
<行き方>
JR赤穂線の播州赤穂駅から徒歩15分。息継ぎ井戸のさらに南、赤穂城跡の大石神社にある。
写真:塚本 隆司
地図を見る大石邸に迎え入れられた急使が、江戸で起きた異変の第一報を伝える。事の大きさに大石内蔵助は何を思ったのだろうか。第二報は同日に到着し、主君浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しが伝えられた。平穏だった赤穂の町が一変し、激動の日々が始まる。
赤穂城三ノ丸にあった大石内蔵助と藤井叉左衛門の両家老屋敷跡に赤穂大石神社がある。大石内蔵助ら四十七義士が仇討ちを成し遂げたことにあやかり「大願成就」「心願成就」の神として崇敬を集めている。参道に並ぶ四十七義士の石像が壮観だ。
境内の義士宝物殿には、忠臣蔵ゆかりの品々が展示されている。大石内蔵助邸庭園内には、池泉鑑賞式兼回遊式の江戸初期庭園がある。写真は園内で撮影したもの。大石内蔵助が第一報の知らせを受け取る場面を人形で再現している。
写真:塚本 隆司
地図を見る赤穂城内では、毎日のように会議が開かれ、開城か籠城、殉死など激論が交わされた結果、浅野家の再興を願い開城することになる。城明け渡しの日から30日以内に、浅野家家臣は城下から立ち退かなければならなかった。
残務処理にあたっていた大石内蔵助も浅野家菩提寺の花岳寺で亡君の百か日法要を行ったのち、赤穂の地を去って行く。去り際に、赤穂御崎に立つ老松を何度も見返り名残を惜しんだと伝わっている。
赤穂城の東に「日本の夕陽百選」に選ばれた絶景と温泉が人気の観光地「赤穂御崎」がある。瀬戸内海を望む場所に「大石名残の松」の碑が立つ。「今は枯れ幹に儚く昔の語り種を残す」と書かれているとおり老松はないが、どこかもの悲しく感じる松の木が碑に寄り添うかのように見える。
<行き方>
神姫バス「赤穂駅バス停」から保養センター行き「御崎バス停」下車、徒歩3分。
赤穂市には、忠臣蔵にゆかりの史跡や名所が数多く点在している。JR赤穂駅から赤穂城跡に向かう間だけでも見どころは満載だ。「忠臣蔵のふるさと」といわれるとおり、あちらこちらに義士の足跡を見ることができる。今なお語り継がれている物語を旅してみて欲しい。義士たちの熱い思いが伝わってくるはずだ。
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(2024/10/5更新)
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