写真:乾口 達司
地図を見る岡山を代表する偉人といえば、やはりこの人からはじめないわけにはいかないでしょう。旭川の東側、古京地区の一画に建つのは、岡山を代表する文学者・内田百閧フ生家跡に建つ石碑。古京郵便局の右隣の民間の塀に埋め込まれるようにして石碑が建っているのが、おわかりいただけるでしょう。石碑の上には鋳造の牛が乗り、表面には「木蓮や塀の外吹く俄雨」という百閧フ句が刻まれています。
百閧フ本名は榮造。明治22年5月29日、岡山市古京町の造り酒屋の息子として生まれました。明治35年、岡山県立岡山中学校に入学。卒業後は、第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、東京帝国大学文科大学入学。大正10年、短編小説「冥途」などを「新小説」に発表し、以後、作家として活躍しはじめます。その後、『百鬼園随筆』『ノラや』『阿房列車』シリーズなどの代表作を発表し、昭和46年、死去。享年81。ふるさとは遠くにありて思うものという考えからでしょうか、上京後は岡山に戻ることのほとんどありませんでしたが、そんな百閧フ石碑が岡山に建てられているという点からは、百閧ノ寄せる地元の人々の思いがいかに強いかがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る内田百閧フ文学上の師といえば、文豪・夏目漱石の名をあげないわけにはいきません。百閧フ『贋作吾輩は猫である』が漱石の『我が輩は猫である』を下敷きにして書かれていることは、そのタイトルからも容易にうかがえますが、百閧ニは縁のある漱石が奇しくも岡山にしばらく滞在していたこと、ご存知ですか?
漱石の岡山訪問は数回ありますが、特に明治25年には親族の慶事などで一月ほど滞在。その間、岡山を襲った大洪水に見舞われたりしています。現在、漱石の岡山滞在を記念して、旭川にかかる京橋近くの水之手筋沿いの遊歩道には、ご覧のような石碑が建立されています。百閧フ場合、石碑の上に立つのは牛でしたが、漱石の場合はやっぱり猫でしょう。石碑の上の猫は、毎日、旭川沿いを通る人々の様子を見守り続けています。
写真:乾口 達司
地図を見る岡山県天神山文化プラザの北側に位置する公園の北西隅には、やはり岡山を代表する画家・浦上玉堂の生誕記念碑も建立されています。浦上玉堂は江戸時代の文人画家。延享2年、当地近辺にあった岡山藩の支藩・鴨方藩の藩邸で誕生しました。戦国時代、当地に勢力を張った浦上氏の末裔であり、藩の上級家臣であったにもかかわらず、文人画家として風雅を愛する日常を送っていたため、身の置きどころがなくなり、遂に脱藩。諸国を遍歴しながら文人としての道を本格的に歩みじめました。文政3年、死去。享年76。
ご覧のように、石碑の上には玉堂を模したと思われる人物が琴を手にして座っています。これは七弦琴。35歳のとき、玉堂は中国・明の顧元昭がつくったとされる名琴「玉堂清韻」を入手し、琴をこよなく愛したことを指し示しています。玉堂の号も「玉堂清韻」から来ていることは、容易に推察出来るでしょう。その仙人のような風貌ともども、風雅に生きた玉堂の人となりを実感してみてください。
写真:乾口 達司
地図を見る日本三名園の一つ・後楽園や岡山城にほど近い、つるみ食堂の脇に建つのは、国吉康雄の生誕記念碑。国吉は、明治22年、記念碑が建つ出石町で生まれました。弱冠17歳でアメリカへ渡り、おもにアメリカで活躍。ヨーロッパにも足を運び、戦後には、現存作家としてはじめてホイットニー美術館で個展を開きました。国吉が日本に舞い戻ったのは、生涯にただ一度だけ。その生涯のほとんどをアメリカで過ごしたこともあり、その名声はアメリカやヨーロッパできわめて高く、日本ではいまだあまり知られていない存在ですが、このような世界的な芸術家が岡山から輩出していること、ぜひ、知っておいていただきたいものです。
岡山の市街地に建つ記念碑を通して、記念碑にまつわる人々の意外な足跡までうかがえるのが、記念碑めぐりの醍醐味であるといえるでしょう。今回、ご紹介した記念碑は徒歩で30分圏内にあるため、一度に見てまわっても2時間あれば、充分堪能出来るでしょう。岡山を訪れたら、記念碑めぐりを楽しみ、岡山にゆかりの人々の生涯に思いを馳せてみて下さい。
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(2025/1/20更新)
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